千曲万来余話その325「運命の501説、証明できるか?という疑問に答える・・・」

  作曲するとき小節数を数えるものではない。  
  音楽は、間が大事である。    
 五小節のうちに二つのフェルマータがあるとき、二つ目の2小節連結したものの方が、一小節分だけ長い。    
 オーボエ独奏部分のカデンツァは、レチタティーボ叙唱部のように表現しただけである。  
 自記筆楽譜には、全休止符が書き残されている。これらは現在の常識である。
 ウィルヘルム・フルトヴェングラー指揮する1926年頃SP録音の登場以来389小節全休止は、その存在が定着して、大多数はその楽譜に従って、一小節分の全休止符がものを言っているというか、そのことにより、ベートーヴェンは偉大な作曲家であるといいながら、その業績の根拠が語られることは、一切ない。というか、彼の楽譜に音楽で異質の一小節が加えられていて、何食わぬ顔、大多数の人々は、そうだそうだとばかり演奏にブレーキをかけて、緊張感を高めるテンポに終始している。音楽の話をするとき、前提として、アレグロ快速にというものを、超スピードでばかり、競って演奏する世の中である。圧力をばかりかけて、快いテンポ、よく響く弦楽器の弓遣いを試みようとは、する余裕がない、判で押したように、何も考えない運命に、指揮者たちは追い込められている。可哀想なのは、ベートーヴェンの神髄に永遠に迫れない職業音楽家たちの集団ということになる。お客様たちも、お金を払っているのだから、無条件に拍手盛大、音楽体験をしているだけ、それが、真実かどうかなどとは、疑う余地はない。ただ、拍手しているだけで、ブウイングするなどとは、一切、考えないということは、かわいそうなのは、実は、聴衆たちなのである。  
 アルトゥール・ニキッシュ指揮という1913年SP録音の音楽は、否定されたままというか、無視されている、すなわち、音楽評論家は一切、この音楽を指摘するのは盤友人以外、誰一人としてこのことを口にしていない。だからインターネットの力が問われている。
 予想できるのは、NHK交響楽団の楽譜倉庫に眠っていることであろう、山田耕筰指揮した、演奏総譜では、かの全休止はないのである。   
  平成28年10月22日FМ放送でオンエアされていながら誰もかの展開部のあとの全休止が無かった演奏でその指摘はなされていないというこの現実、音楽に対してスルーしている現実が、そのままである。501小節楽譜は500小節完成完全な音楽である、という事実を認識できるかは、楽譜を読むことができる人にしかできない事実ではあるが、かの389小節目に全休止があるかどうか位は聴いて誰にでも判断可能である。さて、それが、B氏の音楽かどうかは、断定できるのか?それはゆっくりした演奏をすると、判断可能なことであろう。提案として、ヴァイオリン両翼配置で足取りのしっかりしたテンポで演奏するとき、あの音楽、全休止は不自然であることは、判断できると予想できる。プロ指揮者ならばこのくらいは実験できるであろう。音楽とはそういうものなのであり、誰もそれを実践していないだけである。LPステレオ録音では、パウル・クレツキとジョルジュ・ジョルジェスク指揮するレコードの合わせ技、実演できるのは生の音楽だけなのである。