千曲万来余話その330「ブラームス、ハ短調作品68、音楽は時間の芸術である・・・」

 人は、音を楽しむと云って音楽を説明することは誤りである。音の芸術ではなく、音による芸術であるからそれは、音響の芸術ではなくて、時間の芸術、物音ではなく、楽音に限ることにより、時間を楽しむというのが正しいだろう。     
 愉しむのは音ではなく、時間なのであって、そう過ごすことは愉しい、すなわち、楽興の時こそ本来、音楽の姿なのである。だから、ものではなく、時間こそ求める対象なのだからそのように感じる感性が、その人の音楽性なのであって、心の底から感動する瞬間を求めて、音楽体験は形作られる。オーディオが目的ではなくて、手段なのだから果てしがない趣味の世界だというわけである。よく、音の入口と出口という言い方があるが、プレーヤー、スピーカーだけでは成り立たず、胴体としてのアンプ、さらにはそれらをつなぐ付属品アクセサリーを一体としてシステムは成り立つのである。オーディオは、その人となりであり、人生の味わいがして不思議である。    
 ブラームスは、交響曲第一番を完成するのに、20年以上の時間をかけたのは確かにそうなのであり、彼はベートーヴェンのハ短調作品67を越してその音楽を完成させているというのは、興味深い事実だろう。真実は音楽体験のその時に思われるものであり、説明するものでも、あるまい。作曲するとは、音により時間の秩序を与えることである、とは或る高名な作曲家の、翻訳された言葉である。ドイツ三大Bとは、バッハ、ベートーヴェン、ブラームスだ。作品68の音楽では、運命の動機が聞こえることや、コントラバスによる音楽はバッハの受難曲での体験を想起させて、芸術に深い性格を与える。   
 1952年と1957年には、ウィーンフィルハーモニー管弦楽団によって、ブラームス作曲、交響曲第一番の重要なLPレコードが、記録されている。66歳のフルトヴェングラー、43歳のクーベリック、55歳のクリップスらが、それぞれの年齢で指揮台に立っている。指揮者の年代による相違が感じられて、面白い。中でも、ヨーゼフ・クリップス指揮によるデッカ、LXT番号によるレコードを鑑賞することが出来て、ひとしお感慨深いものがあった。    
 音に味わい深いものがあって、一際、コントラバスの旋律線による深い音楽などは印象的である。当時の演奏スタイルとして、客観的、端正で古典的なたたずまいは、余人をもって代えがたい孤高の記録である。第二楽章アンダンテ歩くような速さで、ソステヌート音をたもってという速度記号は、ズバリ簡潔な表現で作曲者の真意は、容易に判断可能である。アンダンテとは、しっかりした足取りを意味していて、そのテンポ感は演奏の出来の生命線だろう。オーボエやクラリネットの独奏に続いて登場するコンサートマスターのソロは、ホルンの助奏を得て、この音楽のピークを築き上げる。クリップス盤では、その抑制されたヴィブラート、控えめな表情、たおやかな演奏ぶりからして、ワルター・バリリの名前が、クレジットされていないものの、強く印象づけられる。    
 この音楽の由緒ある、作曲者自身指揮したオーケストラによる演奏は1876年12月にさかのぼる。このレコード、ウィーン出身指揮者クリップスのゆるぎない音楽に、改めて生粋ロマン派音楽の精華を見る思いがして、オーディオ人生とは何かを考えさせられた。