千曲万来余話その350「ドビュッスィ、海についての誤発信訂正と、B氏楽譜問題の指摘」

先日、交響楽団五月定期公演で、あれは指揮者の解釈か?という指摘をした。本棚から楽譜を取り出して該当のところを確認することが出来て、盤友人の認識は適当ではなかったことが確認できる。1ers de chasque pupltre Soli というようにフランス語記入があり、辞書を引くと、~それぞれの譜面台 独奏で~この解釈を、指揮者ハインツ・ホリガーは指示していたということで、盤友人はかつて、札幌厚生年金会館での、ラファエル・フリューベック デ=ブルゴス指揮したフィルハーモニア管弦楽団の演奏で第一ヴァイオリン斉奏ユニゾンだった記憶による誤発信。あれは、デ=ブルゴスの解釈が特殊だったことなのだろう。ホリガーは楽譜に拠る指揮だったということだ。                                        
  指揮者がレコーディングするときなど、採用楽譜問題は、演奏の大前提となる重要課題であるのだが、その楽譜自体の問題を、盤友人は指摘する。ベートーヴェンの第五番ハ短調交響曲 第一楽章小節数問題である。問題の箇所は389小節目の全休止、二分休止符の存在である。ブライトコップフ・ウント・ヘルテル社の旧全集1862年頃の改版1966年を底本としているものの写真を掲載。 この曲の解釈、開始の五小節をそのまま、一単位と考えると、123、124小節目の2小節が全休止であって、それまでをリピートして、124と501小節を合わせて625小節すなわち、5の四乗という数字を確認できる。これが、解釈の鍵、426小節目から音楽が流れ出して、現行の427小節目からでは、一小節ズレたことになる。だから、389小節目の全休止が不自然であるという指摘であって、626という数字は不完全、B氏の音楽とは無縁であるということを指摘するのである。
 これは、ベートーヴェンに対する愛情により、その結論は導かれるもので、そこのところ、完全性の追求、そしてその作曲で実現したという感覚が、あの全休止を否定することになる。
 じっくり、総譜楽譜の写真を見ると、その不自然さが、分かるか分からないか、という問題と、レコード、アルトゥール・ニキッシュ指揮、山田耕筰指揮のSP録音では、その全休止が無いという事実、それは、採用楽譜にそれがない底本による演奏であり、その楽譜の存在の根拠となる。その問題は、現在、502小節の演奏が無意識の前提としてはならないということである。それしかないことではない。つまり、指揮者にとって、選択を迫られているということであろう。否!501の演奏があってしかるべきということだ。
 その演奏をする上でテンポが問題となる。アレグロという指定をプレストのように演奏するのは今まで通りの音楽になるだけで、コン ブリオ勇気をもってというごとく、少し緩やかなテンポを採用する時、あの休止する音楽の不自然さは明らかとなろう。なぜ緩やかにするのかというと、それは、ヴァイオリン両翼配置というアンサンブル合奏の高難度によるもので、演奏者と指揮者の両者信頼の上でのテンポ設定により、演奏可能となるのだ。第二ヴァイオリンとアルトが扉を叩いて、さらに、第一ヴァイオリンが叩くというのは、舞台右側から舞台左側へと音楽が対話することに意味があるのを意識化する音楽こそ、501音楽実現の鍵!といえるだろう。指揮者のみなさんは、お試しできる話ではある。どなたが、最初にされるものなのか?楽しみだ!