千曲万来余話その353「名演奏の条件、J・レヴァイン指揮によるK543ウィーン・フィル」

誤解されているようだが、Vn両翼配置は演奏の目的ではない。それは前提条件であり、最終的にはモーツァルトの音楽を鑑賞することにある。だから、現代主流のヴァイオリンを束ねた配置では、味わうことのできない世界なのであり、すでに、否定されている懐古趣味の復活とも異なるだろう。  
  その神髄は、チェロとアルトを舞台中央に配置すること、両袖に第一と第二ヴァイオリンを展開することになるから、現代主流の配置は舞台下手向きに中心線が引かれているといえる。だから舞台上手側にコントラバスが土台となっている配置は、ちょうど、正反対の音楽に仕上がっていることになるのである。ヴァイオリンとチェロの合奏は音楽的理想の実現であり、アルトと第二ヴァイオリンのアンサンブルは、応答の音楽なのである。ちなみに、指揮者の左手側からコントラバス、チェロそしてアルト、第二ヴァイオリンと展開するのは、開放弦が低音から高音へとなめらかに上向するから、そこのところ、理想配置といえる。 
 ジェイムズ・レヴアインは、ウィーン・フィルとモーツァルト交響曲全集を完成させて、K543は、1986年頃録音された名演奏である。こう表現すると、名演奏とは何か?ということになる。スタンダードとなる録音として、日本では、ブルーノ・ワルターのものが広く知られているのだが、それは、一つの音楽のスタイルであって、テンポを自由に変化させるのが当時のものであり、現代には受け入れられない演奏である。すなわち、一定のテンポ設定の下にわずか、自由な変化を与えるのが現代のスタイルなのである。先日、NHK‐Eテレでブラームス交響曲第4番、イタリア人指揮者による演奏が放映されていた。それは、オーケストラに目一杯歌わせていて、ロマン性豊かな解釈であったといえる。それも、一つの名演奏なのではあるが、第一と第二ヴァイオリンを束ねた現代主流派型の演奏なのであってテレヴィ聴衆にとって、あれを、第一と第二ヴァイオリンがステージ両翼に配置されていたなら、どのような演奏に仕上がっていたのか?という疑問を持たざるをえない。モノーラル録音ではあるのだが、トスカニーニの演奏はすべて、両翼配置であったという事実を思い起こすことは、無益なことではないのである。あの男性的演奏の根源には、舞台下手にコントラバス、チェロそして第一ヴァイオリンが配置されていたのである。そこのところで、主旋律がコントラバス、そしてチェロという土台と結びつき、強固な演奏の要素であり、名演奏の必要条件といってさしつかえないだろう。レヴァインとウィーン・フィルによるモーツァルト演奏を聴いていると、主旋律を支える側に、チェロなど低音の音楽が演奏されている。 
 フルートの独奏や、クラリネットの二重奏など、さりげない名演の記録も、ヴァイオリン両翼配置の弦楽合奏が前提となっていることが、キーワードである。ウィーン・フィルハーモニーの弦楽合奏は、その音程が完全であるというのは、特筆される事で、忘れてはならない。美しい音楽には、演奏する前提が必要なのであって、もはや、ヴァイオリンを束ねているようでは、感興がそがれてしまうといえるのである。