千曲万来余話その718「モーツァルト協奏交響曲変ホ長調K364、その多様性…」
思わずドキッとすることがある。レコードジャケットうち袋の入れ方。盤友人はセカンドハンドのLPレコードクレクターとして、盤の取り出しの時にジャケットからそのまま出てくることが有り、それはないだろう、という実感なのだが、中には出しやすいようにうち袋を立てないで収容しているレコードを手にした時である。普通に手間をかけないとする方法でうち袋を横面にしてジャケットの取り出し口を横にしていることなのだが、盤友人として、うち袋は縦にするものである。
オーケストラ演奏会でテレヴィ映像を目にして普通にヴァイオリンの第一と第二Vnを並べている管弦楽演奏で、それを当然、このように感じている聴衆は大多数なのだが、現代の演奏会では、Vnを舞台両袖に配置する古典配置型管弦楽団演奏の展開だ。すなわち、Vnの並べ方について、昭和32年4月30日初版、昭和50年9年10日6刷新潮社発刊定価1200円、音樂紀行著作吉田秀和93頁 ~それにこの時は、昔日本でも行われていた全く古風な楽器の配置ぶりで、新味をてらった点のないのも面白かった。この国では色々な指揮者が色々に楽器を配置して指揮する。そんなことはどうでも良いことだが~この引用文から吉田秀和は、弦楽器の配置について微妙に問題意識を回避、主体性の問題として演奏家の領分だから、解析、評論に封印を試みたというまでである。自分は演奏家ではあらず、その解釈を避ける態度であるのだが、シューマンの「音楽と音楽家」にあるごとく、音楽の問題は、演奏家、鑑賞家のいかんに関わらず、解析は自由なものと云える。中国の百家争鳴という言葉を待たずに、日本の同一性という縛りを避けて通るわけには、行かないというのは盤友人の持論といえる。Vnをならべるのは演奏者の主体的判断であり、古典的両翼配置は作曲者の立場に立つ解釈と考えられるからである。
1961年頃米国DECCA初期ステレオ録音盤、フレデリク・ヴァルトマン指揮したエテルナ室内合奏団、ジョセフ・フックスVnリリアン・フックスALTを再生してすぐに、気の付くことは、右側スピーカーから第二Vnの演奏が耳に入ることである。これは愉快である。いつも気にしていないこととして、第一と第二Vnは左側から聞こえていることなのだが、ステレオ録音では右側は低音というのが決まり文句、これに慣らされていると問題意識は欠落しているのだが、それは、作曲者に対して二の句を告げさせない不幸な結末というまでだろう。和声ハーモニーで考えるとき、第一Vnにフォローする音がチェロであれば、その和音感は西洋の耳でいうとGoodなポリフォニー多声音楽の本質なのであり、日本人にとり馴染みの薄い単一旋律ホモフォニーの民族性とは相違がある和声感覚による。フックス兄姉によるヴァイオリンとアルトの楽器鳴り方の違いは、モーツァルトの素敵な筆遣いによる旋律の描き分けが成功した屈指の名作の所以をものがたる。
8月28日夜は満月であり、オーディオファンにはそのスピーカーの鳴りっぷりに、いたく感動されたご満悦のリスナーが居られたことに相違ない。盤友人はオーディオ装置のセッティング、とりわけ、インシュレーターというアンプなどの脚に噛ませるスペーサーの威力にこだわる派として、昨夜の試みは大変な効果を上げていたと言わざるを得ない。アルトの楽器胴体の響き方は芳醇かつ豊麗極まりなく、右側スピーカーから聞こえる第二Vnメロディーラインは、そのスパイスとしてナイスな仕上がり方であった。これはあくまでモーツァルトの偉大さを味わうツールであって、その装置自慢とは、少し異なるものといえるのだが、音楽の愉悦にまさるヴィタミンはこの上ないものであると言ってさしつかえないだろう・・・