千曲盤来余話その68「女流ピアニストによる、独身男ブラームスの音楽」

1979年末に日本コロンビアのPCMディジタル録音レコード、ブラームスの音楽があった。製作担当は橋本珠子、録音担当は林正夫というクレジットがある。
ピアニストは、当時、東ドイツ出身のアンネローゼ・シュミット。
第二面は、作品116の幻想曲集で、カプリッチョ奇想曲三曲、インテルメッツォ間奏曲四曲から1892年頃の作曲順に編集されている。
丸山桂介氏の紹介が実に簡潔、明瞭で立派な評論である。
シュミット女史の安定感あふれる音楽を賞賛していつつ、ブラームスの持つ男性的音楽の表現の問題に触れている。女性にブラームスが弾けるか?というと失礼きわまりないことになってしまうのだけれど、歌舞伎で男性が女性役を演じるのと正反対の問題をはらんでいる。カラオケで、津軽海峡冬景色を男性が歌うことと同種の問題であるというとお分かりいただけるか?
フランツ・リストの音楽は、超絶技巧を前面に押し出しているために分かり易い。
ヨハネス・ブラームス1833、5/7~1897、4/3のピアノ音楽は親しみ易い旋律の表面の下に複雑晦渋な和声が弾き巡らされていて、超困難な演奏技巧が要求されている。たとえば、ピアノ協奏曲第二番変ロ長調作品83、48歳作など、聴いている分には平易な感想を持つものであるけれど、演奏上ではフランツ・リストに負けるとも劣らない技巧を必要としている。
ピアノの手ほどきで、ソナチネ・アルバムからソナタ集、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンの楽譜から、シューベルトの即興曲集の楽譜を手にしたときの面食らった感想を盤友人は、経験して持っている。音符の複雑さ、旋律の多数に対してびっくり仰天するのである。
女流ピアニストが、モーツァルトやベートーヴェンを演奏するのはさして問題は無い。それほど古典派音楽は、人間性を問われない芸術である。ところが、フランツ・シューベルトやブラームス、ロマン派の芸術音楽は、その中に男性的人間性を色濃く宿しているのではあるまいか?それを丸山桂介氏は、ブラームスにとってのクララ・シューマンの存在に対する愛を指摘している。まことに同感である。
終曲カプリッチョの演奏に対して、微妙な過剰感情移入を感じたのは、盤友人だけなのであろうか?