千曲盤来余話その70「交響曲第七番、ベートーヴェンとシューベルト」

シューベルトの第七番というと、以前は、ハ長調交響曲でグレートというあだ名であった。
相応しい番号として、第九といわれることもあったのだが、2015年の現在、未完成交響曲、以前は第八番であったものが、第七番となっている。
だいたい、未完成というあだ名は、いかがなものか?それだけで完成しているのではないのだろうか?未完成という完成である。
まだ未定です、とはつい口に出るフレーズ。まだ決まっていませんというべきだろう。
われわれ世代としては、交響曲第八番は、未完成とこうくるほうが自然だ。
ベートーヴェンの第七番は、作品92。
カルロス・クライバー指揮したウイーン・フィルの1975,6年録音の演奏は、ヴァイオリン両翼配置になっている。第二楽章後半にある第一と第二ヴァイオリンの対話など、この配置が必要条件であることが、歴然としている。これしかないでしょう!
第二Vnが左スピーカーにあるのか、右スピーカーから聞こえるものか、これは、作曲者の意図をどう反映するか、指揮者の音楽観の発露である。
演奏容易な方は、左手側配置、第一と第二と並べることになるのである。
第二ヴァイオリンが右手側に配置される音楽は、作曲者尊重の配置になるのである。
ステレオ録音は、そこのところで緊張感を醸し出している。
昭和40年代にテレヴィに映し出されるオーケストラの大多数が、ヴァイオリンの左手側配置であった。そのことは、そういうものだという、刷り込みでもあることになっていた。
その選択は唯一ではなくて、音楽観による判断が迫られているというのが現代だ。
無意識にしてのヴァイオリン配置は、音楽の楽しみを、矮小化しているに過ぎない。
カルロス・クライバー、ピエール・モントゥー達は、コントラバスを右手側に配置させているために、聞き過ごされやすい。
最近のペットボトルで供給される水、天然水は、クレジットとして、軟水、硬水、湧水、井戸水、鉱泉水などなど、成分の区分け表記が厳密である。
音楽の供給は、ヴァイオリン両翼配置など、クレジットが必要でなくても良いのか?