千曲盤来余話その86「衝撃の運命、そして今まで通りの。」

TV放送の、ベートーヴェンの交響曲第五番を鑑賞した。
指揮者は、意気込みとして、その音楽の初演された当時の衝撃を語っていた。
盤友人としては、その演奏の第一楽章テンポ設定、楽器配置、間の違いという三点で疑問を禁じ得なかった。
あのテンポ設定は、楽器配置による。きわめて、イージーな選択に他ならない。
アレグロ・コン・ブリオという作曲者指定のテンポは、プレストと同じで良いのか?
快速というのは、こころよいテンポなのであって、単に早いのとは、異なるのである。
今まで通りの、選択に過ぎない。オーケストラの配置、第一と、第二ヴァイオリンを両翼に開かなければ、音楽は、今までとは変化しないのである。衝撃にはならない。
オットー・クレンペラーや、フェレンツ・フリッチャイのような、ゆったりしたアレグロのテンポ設定は、ヴァイオリン両翼配置の設定故であろう。第二ヴァイオリンが、舞台の右側から聞こえる工夫無くしての衝撃はあり得なくて、今まで通りの演奏なだけである。
指揮者はその努力無くして、音楽の提供は考えられない。TVを現在まで、見続けていてそのような感想を持つのは、盤友人だけなのであろうか?
389小節目の間違いは、決定的だ。かの指揮者は、冒頭の5小節で、二回目のフェルマータを必ず、一小節余分な振りを付け加えていた。全く、不要な振り方である。このように、振る指揮者は今までも居た。5小節の意味が未消化なのである。書かれているから、ただそのように振っているだけで、フェルマータに一小節余分というのは必要ないだけだ。
すなわち、389小節目の間違いの解決が、クリアされていない。書いて有るとおりに振っているだけなのである。
なぜ、5小節一単位の音楽なのか?500小節完全の音楽であることに、気がついたとき、389小節目の全休止の音楽は、ベートーヴェンの音楽ではなくて、除去して演奏しなければ、衝撃の運命にはならないというまでである。