千曲盤来余話その114「リヒテル、ピアノ奏者のロマンチシズム」

さりげなくピアノを弾き始めていて、ふと耳をすませると、一瞬、遠雷が響いているといったフランツ・シューベルトの第21番ともいわれている変ロ長調ドイチュ番号960。第一楽章だけでもLPレコード片面24分かけて演奏しているのは、スビャトスラフ・リヒテル。1915年3月20日ウクライナのジトミル出身で、1997年8月1日にモスクワで死去。1970年、鉄のカーテンをくぐり、来日公演を果たしている。
1954年以降、ソヴィエト国内を出てプラハで活動を披露して以来、1960年初頭では、アメリカ、カーネギーホールのデビュウを飾った。
その時録音された、ベートーヴェンの熱情ソナタは、巨大な伽藍を思わせる演奏の様相を呈していた。鉄人ピアニストによる衝撃的な演奏であった。
強い意志を感じさせる、ピアノ芸術の一つの典型であり、ロシアン・ピアニズムが西側に与えたショックな一大事件である。
その彼をして、私の十本の指をもってもかなわないピアニストとしてエミール・ギレリスの名前を挙げていたのは、有名な逸話の一つ。
そのリヒテルは、1972年、8月、11月にザルツブルグで重要な録音を残している。
バッハの平均律クラヴィーア曲集、全曲録音、そしてシューベルトの作品。
シューベルト晩年のソナタは、1828年に書かれていて、短命、薄暮の芸術の名曲である。当時57歳のリヒテルの録音で、充実したロマン派の音楽として、古典的なソナタの音楽を高め、青年シューベルトの内面世界を表現していて、濃い表情を見せている。
この曲には、クララ・ハスキルの孤高の1952年録音もある。
オイロディスクで聴かれるリヒテルの演奏は、いかにも男性ピアニストによる演奏の機微を感じさせて余りある。
ピアノの打鍵に、いっぱいためらいを込めている。これは、女性ピアニストに無い風情でありシューベルトに対する内面的共鳴が、ひしひしと伝わってきて、落涙を覚える。