千曲盤来余話その126「二種類の間についての検証の必要性」

世の中には、全体を覆う雰囲気、無言の圧力というものがある。
音楽を話題にする時に、いわずもがなの前提の一つに、間は音楽にとって、重要な価値を有するというものである。
このことは、真理の一つではある。確かに、話をする上で間をおくことは、説得力を持つ演説力の一種であることは、そのとおりに違いない。
この点からすると、一カ所の全休止を否定する見解を表明するとき、対論として必ず、経験する。盤友人の主張の一つに、ベートーヴェン第5交響曲第一楽章の一小節を問題の俎上に乗せている。
モーツァルトのジュピター交響曲第41番ハ長調Kケッヘル551の第一楽章にも、全休止は存在する。シューベルトの、グレート交響曲第9番ハ長調Dドイッチュ944第二楽章にもそれは、存在している。それらは、そうである。
ところがここで、楽譜には作曲者の手によるものと、そうでないものによる可能性があるということの検証を、提起したい。
どういうことかというと、運命の自筆楽譜に、全休止が書かれているから、というだけの思考停止を、批判するものである。かの389小節目のものは、不必要、音楽の流れをせき止めるものだという見解による。
その指摘は、かの全休止のない演奏の存在によって成立する。
アルトゥール・ニキッシュや、山田耕筰、パウル・クレツキの録音である。すなわち、その音楽がすでに、記録されているという事実である。二種類の楽譜が存在しているということ、このことから、全休止には意味があるという前提に対する検証だ。
音楽の節目が426小節にあるのに、現在では427小節目という一小節のズレがあるということに対する気づきである。
闇雲に全休止を前提にするのではなく、他者の手による異質の音楽であることを検証する必要性、2015年8月6日を前にして提起したい。間違いという言葉が有るではないか?