千曲盤来余話その131「レコードは、生きる証である」

札幌市中島公園にある北海道立文学館に、足を運んだ。大正イマジュリー、装幀画の世界という色彩とデザインの展示であった。印象に残る表紙画がズラリと展覧されていた。鮮やかな色彩、ロマン溢れる詩情に満たされていた。
カラー写真が普通にある現在にはない、豊穣の時代である。そのあまりの芸術世界に、感動を覚えて館を後にした。
気になった画に、「なはとしらく」があった。この表記は右から左に読まなければ理解できない。そういう世界であるという認識がないと、愉しむことは不可能であり、そうすると理解が可能な世界であった。
レコードを愉しむ人と、コンサートに足を運ぶ人との間には、音楽ということは共通していても、現在と過去の音楽という、大きな違いがある。
レコードとは、言葉の意味通り記録である。その時代を再生する儀式手段である。
目的は、音楽にあり、ということは、生きている音楽の追体験でもある。
誤解されていることであるが、レコードの音楽は、死んでしまっているのではないのであってその音楽の再生は、生きている音楽の鑑賞である。
良い音とは、生々しい音ではあらずして、そういう、音楽のための音である。
1913年11月に、ベルリン・フィルハーモニーはSP録音を果たしている。ベートーヴェンの交響曲第五番全曲。この音楽の価値を認識するとしたら、その一つとして、第一楽章501小節の記録であるということだ。そこを、スルーしてしまうと、なんの価値もないことになる。123と124小節目は、全休止である。それは省略されているわけではない。そのマがあって、リピート記号があり反復したとしたら625小節、5小節の4乗という完全な楽譜の成立という音楽である。
現行502小節の演奏は、彼の作曲する上での意志から外れているという気づきは、音楽の記録から、振り返らなければならぬ価値がある話ではないか?