千曲盤来余話その134「1957年8月31日オールドバラでのラスト演奏会」

モーツァルトのホ長調協奏曲未完の断片作品、突然音楽は止まり、沈黙。
デニスは、肩をすくめると、ジュビリー・ホールの舞台から去っていったという。
彼のラスト・コンサートは予期されずに、訪れていた。9月1日、ロンドン近郊で、カークラッシュにより、彼の生命は奪われてしまった。
デニスの前にデニス無く、デニスの後にデニス無し!とまで言われたデニス・ブレイン。
祖父のA・E・ブレイン、父親のオーブリー、三代目のデニス、
アルフレッド・エドウィン・ブレインは1860年2月4日に、ロンドンのターナム・グリーンでウィリアム・ブレインの一人息子として誕生。四番ホルン奏者として活躍したことにより、ジョージ四世というニックネイムで親しまれた。1885年10月24日、アルフレッド。1893年7月12日に、弟のオーブリーが生まれ、17歳から奨学生としてアドルフ・ポルスドルフの下でホルンを学んだ。1913年秋、トーマス・ビーチャムはオーブリー・ブレインを歌劇団首席として採用している。
1935年、アドルフ・ブッシュ指揮するBBC交響楽団でバッハのブランデンブルグ協奏曲を録音している。1921年5月17日ロンドンで彼の二男としてデニスが誕生。兄のレナードは、優秀なオーボエ奏者であった。デニスは、三歳の時、すでに、完全なホルンの音を発していたと言われている。
デニスは、ピアノ、パイプオルガンの演奏を身につけていた。ロイヤル・アカデミーに入学して、父からは、ラウー製のホルンを与えられていた。
室内楽演奏として、ベートーヴェンの七重奏曲や、モーツァルトのピアノと管楽五重奏クインテットをレパートリーにしていた。1938年10月6日、父オーブリーの下、二番をデニスは吹いて、デビュウを果たしたばかりのキャリアを開始した。
フルート奏者のガレス・モリスは、その当時から無二の友人となっていたという。
トーマス・ビーチャム指揮したロイヤル・フィルハーモニック、カラヤン指揮したフィルハーモニアオーケストラ・オブ・ロンドンなどの首席を経歴してLP録音は多数。
特にカラヤンとのチャイコフスキーの五番は、エヴァーグリーンの輝きを放つ。