千曲盤来余話その135「ミサ曲ロ短調BWV262の宗教性を問う」

電話で伝えられて、知人宅に足を運び当主のオーディオを聴くことになった。彼は、レコードを聴くことにはこだわりをもたないようにして、CD、LPどちらでもどうぞというスタンス。装置は、100Wのトランジスターメインアンプでドライブとのこと。彼としては、石だとか、玉だとかは、どちらでも良い!音楽を愉しめたらともおっしゃっていた。
聴いた感じとしては、スピーカーの音を耳にしているとき、その前にガラスのつい立てがあるような気がしてならなかった。そこから直接的振動が、耳に伝わってこないのだ。
普段、拙宅で聴いている装置の音と極めて似ている。けれども、根本的に波動が伝わらない音楽だった。空気感が、皆無のディスクを聴いていた。
ひるがえって、拙宅の装置で、真空管のアンプの音を充分にドライブ、再生して溜飲をさげる思いを味わった。自分の装置に対しては、おかしな表現の仕方ではあるのだけれど、溜飲の下がる思いをしたのだった。リヒテルの弾く、バッハ平均律クラヴィーア曲集。六曲目に至り、雀のさえずりが、記録されていて、それが聞こえると心が和む。
アナログと、真空管の極み、たぶん、かの当主にお聞かせしても、別の世界なのだと、思いを新ためてした。
昭和44年5月、カール・リヒターと、ミュンヘン・バッハ管弦楽団、合唱団の演奏によるバッハ、ミサ曲ロ短調をFM放送で、体験した。
あの鮮烈な経験は、以来バッハ原体験となっている。それは、音楽なのか?宗教なのか?
音楽と宗教の、一体となった感動は、無二である。音響のシャワーのみならず、宗教的メッセイジの洗礼なのであった。なぜ、バッハはラテン語による音楽を創造したのか?
その答えは多分、音楽は音響のみであらずして、音楽性、宗教性の一体だという普遍性によることなのであろう。