千曲万来余話その176「ベートーヴェン、ピアノ三重奏曲作品1から第九交響曲までの世界」

B氏がハイドンに作曲入門を果たしたのは、1791年6月ボン宮廷でのこと。フランス王政廃止の年。
11月10日、ウィーンに到着して留学の第一歩。作品1でピアノトリオ作品完成は、1794年のことだ。
無論、多数の作品番号つかない音楽を習作で書いている。1778年、3月26日に最初のピアノ独奏会をケルンで開催。同年、ヴァン・デン・エーデンにピアノとパイプオルガンを師事している。8歳でプファイファーにピアノを師事。9歳の年、ロヴァンティーニにヴァイオリンとアルト=ヴィオラを師事。
10歳で、ネーフェに和声、作曲の勉強を始めている。11歳で、宮廷オルガニスト助手を勤める。
これらの経歴は、B氏の意志によるものなのか?否!父ヨハンの考えによるものだろう。
ちなみに、家系はオランダの由来ではあるが、祖父は、オランダから1732年頃ボンに移住、ドイツ人妻マリア・ヨゼファとの間にヨハンが生まれ彼も、ドイツ人女性マリア・マグダレーナとの間に祖父と同名で、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンが1770年12月16日頃、誕生している。
平民の家系でありながら、楽器演奏と作曲の修得経験を課したのは、父ヨハンの意志であった。
母マリアは、1787年死去、父ヨハンは、1792年52歳で死去している。12月18日B氏21歳のこと。
1795年作品1のピアノ三重奏曲三曲を楽譜出版。1800年4月2日、交響曲第1番初演、1805年4月エロイカ、英雄交響曲公開初演、1808年12月22日、交響曲第5番、第6番を初演。1813年12月8日、第7交響曲初演、14年2月27日、第8番初演。1823年の夏バーデンにて、第九の作曲進む、52歳のこと。1824年2月第九交響曲完成、5月7日、ウィーン初演。自身の指揮によるエピソード、アルト歌手がB氏に対して拍手喝采の答礼を促した事実は有名だ。
交響曲は、それまで、管弦楽だけの音楽であった。B氏は、第四楽章に四声独唱と合唱のカンタータ形式の音楽に仕上げた。オー、フロインデ友よと歌い出して、フロイデ喜びよと男声コーラスが発声する。愛する妻を勝ち取れなかった者は、去れ!とまで独唱者達は歌っている。彼は生涯独身を通していたことを考えると、それはシニシス゛ム冷笑だ。
歌詞の中の、ユーベルム・シュテールネンツェルト、ムス、アインリーバーファーター、ヴォーネン。星空の彼方、愛する父親は、必ずや居ませ給う。ゲッテルフンケン、ゲーテルフンケン!オーケストラ総奏の中、シンバルや、トライアングルを乱打、まさに、神々の世界の火花のごときである。
歳時記に、第九が入っているのだろうか?師走に第九とは、歌舞伎、忠臣蔵は大入りにあやかり、交響楽団経営陣、合唱団員たちの餅代かせぎだ!それでも良いじゃないの?