千曲万来余話その190「追悼、ピエール・ブーレーズ指揮のハルサイを聴く」

お正月に、1970年のジョージ・セル来日公演の時、随行していた作曲家にして指揮者のピエール・ブーレーズのことを発信していたら、7日付けの朝刊を目にしていて突然、彼の訃報に接し驚いた。
5日、南ドイツ・バーデンバーデンにて家族により90歳、彼の死去声明が発表されたとのことだ。
天寿をまっとうされたのだろうと想像する。
彼の偉大な芸術を偲ぶことにする。
マウリツィオ・ポリーニの演奏する、ブーレーズ作曲、第二ピアノソナタ1948を再生したら、その余りの衝撃に目のくらむ思いがした。
そのドイツ・グラモフォン盤、リリースされて以来、ほとんど1~2回しか聴いていなかった。
印象の持ちようがないという印象だったことを、思い出していた。盤友人はそれ以来多数のLPレコードに接してきたのだけれど、それ、ポリーニの演奏は空前絶後の音楽である。
始めに演奏されていた、アントン・ウェーベルンの変奏曲作品27、1926作の短い音楽が叙情的な印象を獲得した。その後のブーレーズのピアノ音楽は、明らかに違和感は派生しないどころか、その延長線上に続いていた。ウェーベルン、そしてブーレーズという12音音楽の一直線上に地平は広がりを見せている。
ピアノという楽器の、ベートーヴェン以来の芸術、そのたどり着いたというか、発展した極北のような氷上の世界、その頭上に星空世界が輝き放つかのような音楽であった。
北斗七星、おおくま座の一部、北の夜空に今では真夜中、垂直に姿を見せている。そのひしゃく星の柄中程の星は、二重星、肉眼で二つ見えるという。だから北斗七星は8つの星からできているということを知ったのは、つい年末のこと。
ブーレーズの第二ピアノソナタ、4楽章からできていて、1極度に急速に、2レント、ひじょうに遅く、3モデーレ、中庸で、ほとんど活発で、4ヴィーフ、活発にという表情記号が付いている。
前半は、フランツ・リストの音楽、以前の存在を感じさせたし、後半は、ベートーヴェン、第32番の最後のソナタ、バルトーク、シェーンベルクの雰囲気が伝わってきた。ポリーニは、この音楽を40年ほど前、1976年6月、ミュンヘンで録音している。
1963年6月、パリ、フランス国立放送管弦楽団を指揮して、イーゴル・ストラヴィンスキー作曲した、バレエ音楽春の祭典を録音している。フランス人達演奏によるコンテンポラリー、現代音楽のクラシック、古典とも言えるディスク。1969年録音のクリーヴランド管弦楽団との名演奏をたてつづけに再生して、前者の演奏のその空前絶後の芸術に、天を仰いでしまった。そこに、ブーレーズの笑顔を、思い浮かべた。
1963年のディスクは、明らかに、オーケストラプレーヤーの勢いがあり、熱狂がある。冷静な作曲者が背後に存在して、指揮者ブーレーズは、その伝道者である。その音盤以降の演奏は、すべて管理されて安全運転の歯車であって、スリルがない。演奏の面白さは奇蹟の記録となって、再生できるのであり以後の芸術とは、截然として異なる芸術である。面白すぎる録音であった。
ハルサイ、春の祭典は、以後多数の録音を果たされているのだけれど、野蛮バーバリズム、叙情リリシズムを併せ持った演奏、熱狂と秩序は、無二であろう。その要にブーレーズは指揮台に立っていたのである。