千曲万来余話その285「良い音とは何か?オーディオの醍醐味を求めて!」を掲載。

年末の風物詩というと、クリスマスパーティーや忘年会などが思い浮かべられる。
日本人が、なぜ、クリスマスか?などと考えると不思議な世界ではある。なぜなら、敬虔なクリスチャンなら自然ではあるけれど、イエス・キリストの誕生を異教徒たちが、口々にメリー・クリスマス!などと口にするも不自然な話ではあろう。まあ、お隣の国、太平洋を挟んではいるけれど、大統領選挙の開票速報テレヴィ報道が一日中続けられるお国柄だ!なんという不思議なことか!というものである。
同じ事は、日本人でありながら、バッハだ、ベートーヴェンだと西洋音楽を趣味の世界とする、盤友人など、八橋検校の音楽などよりB氏の音楽を愉しんでいる図式は、なかなか不思議な気がするだろうということでもある。
盤友人にとって、四十年前の大学卒業論文、年末に仕上げられず、提出締切の期日を二ヶ月ほど遅延して、担当の教授に届けたという苦渋の経験を昨日のごとく、思い浮かべる。ほんとうに書き進められない原稿用紙、七八十枚ほど、悪戦苦闘、人生の最大ピンチ、ピークを成す一つの出来事、四世紀、中国の詩人、陶淵明における死生観についてであった。
帰りなん、いざ、田園将に荒れなんとす!という詩句で有名な詩人、彼の全作品に読める死生観の中心という論文だった。要するに、何時死んでも良い!という諦観と、いや、まだまだ死ぬことはできないという正反対の心情告白という振幅をそのまま受けとめた結論である。歳月人を待たずという有名な言葉こそ、彼の詩句であったという発見は、考えてみるに、皮肉なことである。
良い音とは何か?という問いかけ、実に結論は一つ、というとそれは死ぬまで続くというテーマであるというものであろう。 ハイファイ、つまりハイ、フィデリティ、原音忠実性などという言葉に終始するような人は、幸せな人である。余りにも簡単すぎる。つまらない話ではないか?内容がないということではあらず、まだまだ、他にもたくさんあると言いたいのだ。
音量ひとつとっても、その実体を言葉で説明することは、決して容易ではない。音の強弱について、ある人は、音が高い!という。つまり、ヴォリュウム設定が高い、量感が大きいということである。そのことひとつとっても、スピーカーの鳴り方と、聞く人の聴感上のレヴェル問題、このことは、簡単に把握できる問題ではないということである。
音圧というもの、音響という疎密波と、音楽という演奏行為の記録再生にとって、必要な条件がキーワードであろう。音圧は、経験の積み重ねの上で、獲得できる感覚のものである。
倍音とは、音楽の上で和音の音響に感じられるものである。オーディオでいうと、スピーカーの鳴り方の上で感得できる感覚である。スピーカーと楽器は、同じではあらず、という事実を忘れてはならない。同一視すると、錯覚に陥るばかりである。この楽器とスピーカーの、間の感覚こそ、空気感、演奏のダイナミズム音楽の感覚であろう。ピアノの音を越えた、演奏行為の把握こそ音楽の醍醐味である。演奏している空間の、空気感こそ、記録再生の必要条件の一つであるまいか?