千曲万来余話その318「モーツァルト、K570変ロ長調をグレン・グールドが弾くと・・・」

一般的な常識として、オーディオはつなぐだけで、音は出るというものがあるだろう。 
  盤友人は、常識をハナから信じていない。オーディオの道は人生であって、日々あらたし、という具合で変化していく、登山に似て周りの景色は一つとして同じではありえない。
 山は変わることはないが、それを登る時間は一つとして、同じからず千変万化するものだからである。山がオーディオシステムだとすると、それを登る、すなわち、歩む行為で鑑賞する行為は同じからずで変化に富み、魅力あふれるもので努力を必要とするものなのであろう。 「実際、我がオーディオルームに鎮座するクラングフィルム、オイロダインは二十三年前とは確かに著しい変貌をとげて、様変わりした音楽を奏でている。すなわち、経年変化エイジングを加えて音響自体、異なったものに仕上がっている。   
  スピーカーというものは、つないだら最高の音楽を演奏するのではあらずして、一つずつの積み重ねを経過して、ローマは一日にしてならず、というがごとく姿を現すことになる。
 それは、あたかも、素人がスタインウエイを前にして、モーツァルトやシューマンの音楽を演奏できない風景に似ている。ピアノの音は出せても、音楽にはならないということである。
 モーツァルト17番のピアノソナタまで録音した1965年からのプロジェクトはグレン・グールドにとって、エポックメイキングにあたる録音。それは、テンポの対比に主力を注いで、意表を突いた音楽の経験を目指している。すでに、ワルター・ギーゼキングの業績を前にして、同じアプローチの仕方を、あえて、避けているのである。常識的な前提を拒否して、その上、レガート滑らかにとノンレガートといって、ピアノ演奏法の違いを強調する音楽を披露して、さらに、テンポ、演奏する上での速さの対比コントラストを提示している。だから、イメージを前もって備えて聞くのではなく、グールドの演奏行為自体を楽しむのが、このレコードを再生する要点である。
 グールドのピアノという楽器の再生する音響は、極めて明快、残響を拒否するような、スタジオで録音、それを再生した切れ味鋭い音楽であるから、あのような、レガート、ノンレガートの対比が可能なのである。だから、それを素直に再生すれば、それはそれで、充分味わい深い音楽になる。
 鑑賞法として、一般的なモーツァルトではあらずして、グールドのモーツァルトとして愉しむことが要請されている。アレグロ快速には、プレスト急速にというテンポと同じくらい速くて、アンダンテゆったりとは、モデラート中くらいの速さでと同じくらいの感覚で演奏されている。だから、用心して鑑賞する態度を構えると、グールドは、集中しているのが手に取るように伝わるというものなのだ。それに比較して、シューマンの色とりどり小品作品99、スヴィヤトスラフ・リヒテルの演奏録音を聴くと、いかにピアノという楽器が豊かな音響を奏でるか?と、妙に嬉しくなる。
 グールドを否定するのではなく、それはそれとしてインパクトを愉しんだ上で、リヒテルが演奏するシューマンの音楽を十二分に愉しむ。第11曲など、いかにもシューベルトの音楽が鳴っていて、ああ、シューマンはシューベルトの楽譜を演奏していた思い出をここに、作曲していたんだという感傷が経験される。グールドの問題提起のおかげで、リヒテルが嬉しいという図である。