千曲万来余話その323「モーツァルト、ニ短調KV466アニー・フィッシャー独奏、指揮ボールトで」

 これは入手することのできる唯一、管弦楽がヴァイオリン両翼配置による同曲LPである。独奏者アニー・フィッシャー1914・4/5ブダペスト生まれ~1995・4/10同地没は、一貫して名器ベーゼンドルファーを愛用している。1959年頃、指揮者エートリアン・ボールトとはEМIでLPレコードを残していた。  
 古典的でということは、格調高くなおかつ強弱の対比が克明という印象を受ける。テンポの緩急も柔軟であり、健康的なモーツァルト演奏に仕上がっている。彼女の特徴は、ハンガリー系の音楽家に共通する、ということは、フランツ・リスト音楽アカデミー出身だからか、コントラスト隈取の明確な表現が、徹底している。楽器のタッチにしても、確実で、明快。彼女は愛煙家として、いくつかの写真を残しているが、そういえば、ヴァイオリニストのヨハンナ・マルツィも同じくであった。現代では、煙たがられているというと、いやな存在のことを意味するのだけれど、彼女たちは、憎めない音楽家である。札幌音蔵社長KT氏もなかなか、手放せなくて、盤友人にはその経験はない。時代は変わるのだから、自分を変える努力も必要ということか。でも、北の匠に対しては人間関係から言って、煙草をやめなさいとは、おこがましくて、いえないのだが、逆に長生きを願うならば、そこは鬼になり、おやめなさいではなく、やめたほうがいいかなあ位、ちくり、しておこう。  
 2016年音楽シーンで強烈で、印象に残ったものは、内田光子独奏指揮による、マーラー室内管弦楽団による、モーツァルトのコンサートであった。彼女は、ヴァイオリン両翼配置のオーケストラを前にして、華麗な演奏を展開していたのだった。それは、ステージ上で、楽器同士の対話が際立っていたのだった。それは、モーツァルトの音楽の必要十分条件であったといえる。  
 1960年代の音楽シーンは、両翼配置否定の上で成立していたといえるのだが、時代は、その回帰現象の風が吹いているのだ。アバド指揮した室内管弦楽団はその路線を進行している、ということは、舞台上での対話重視の音楽演奏といえるだう。ボールトの指揮するフィルハーモニア管弦楽団は、その音楽の記録を残しているのである。エードリアン・ボールト卿1889・4/8~1983・2/22の残したステレオ録音はすべてが両翼配置ではないのだが、多数残しているのは確かである。その意味で彼をフォローしておく価値があろう。  
 両翼配置という音楽は、ふつう、指揮者たちから煙たがられている言葉ではあるのだが、盤友人にとっては、大歓迎される音楽であって、オーディオ・システム向上と正比例して、親しむ言葉である。サイト・アクセス・フォロワーの皆さまの中でも、賛成派と反対派に分かれることであろうと推察する。いえることは、盤友人が育ったのは、ヴァイオリン群が束ねられた時代であっても、現在は、無条件に賛成派ということである。これは、音楽演奏行為が、舞台上での対話から成り立つことに気が付いたとき、それは、楽しいからと云うほかはない。  
 すなわち、モノーラル録音から、スピーカーふたつのステレオ録音に歴史は、アウフ ヘーベン止揚したのであることに、認識を深めるオーディオファンとのつながりが広まることを、切に希望する。だいたい、時代のキーワードは、つながり、ではないだろうか?そうすることにより、時代は回るよ、時代はまわる・・・・・