千曲万来余話その333「ブルックナー、交響曲第七番第二楽章アダージォのSP録音」

 

ブルックナーの交響曲というと、重厚で長大、深遠といった形容詞が思い浮かび、好き嫌いが分かれるところであろう。実際、日本で或る高名評論家などは、第二楽章でウトウトして気が付いたら、まだ同じ音楽が繰り返されていたとカミングアウトして、苦笑を誘っていて失笑を買っていたわけではないが、そこのところ、あいまいではあった。 
 フルトヴェングラーは、
1942SP録音として、第二楽章だけ、正規録音していて、米ディスココープで入手可能である。それは一種、至高の名演である。どうしてかというと、まず、ノイズクラッチといって78回転ディスクに特有なノイズ成分を含んでいるということ、ということは、聴覚バランスとして、耳にすることはあるにしても、気にならないくらい音楽信号を充実させると、問題にはならないで、鑑賞すると感動を覚えるということだ。そのためには、オーディオの長い、長いプロセスを経験しなければ到達できない、喜びというものである。容易には獲得できない境地というもので、アナログにこだわりがある人にして、理解可能な話ではあるだろう。唯一至高の境地というのは、そういうわずらわしさを経験して初めて、知るものだ。音楽情報を知るというのは、SPLPCDPCなどと様々なのだけれども、アナログの世界は、SPLPまでであって、CD、ましてやPCを聴いて千曲万来余話その文章を生み出すことできるものではない。感動と、知るという行為は、似て非なるものがある。最近の傾向として、テレビの情報でクイズ形式など、知る知らないの結果判断を競うばかり、食事番組では、レポーターの食レポといって、知らしめるだけの情報、感動とはほど遠い世界である。感動とは、ある種の、宗教的境地というか、感動とは祈る行為に似ている。考える、思う、想うなど、それぞれ深い違いがある。その行為を深めることが、感動の起因するところとなる。  
 両翼配置というワード、特に気を付けなければ誤解の元となる。知ることが目的ではなく、感動を深めなければ、言葉の遊びに等しいものがある。だからあのフルトヴェングラーの音盤を再生して得られる高みは、実は両翼配置の境地であるという指摘から、その解析を必要とする。音源はモノーラル音響であって左右の感覚はなくコントラバスとヴァイオリン演奏という音楽上の、特徴の把握にある。すなわち、揺らぎのない音響の上に、推進力という力感のそなわった音楽のもたらす演奏の力といったら良いだろうか?これは神格化された指揮者のなせる業であって、凡百の指揮者ができる音楽ではないだろう。至高の音楽の所以である。この音源を経験できるサイトアクセス、ウオッチャーは数少ないであろう。それを考えると、罪な話ではあるけれど、いつの日かその経験をしてもらいたい、登山の話のようなものである。        
 左右から音が聞こえるのではないのに、なぜ、両翼配置なのか?というと
1945年というドイツ敗戦を境にして、フルトヴェングラーの音楽、特にオーケストラ配置に変更を加えているという、明らかな歴史的事実にある。このことを指摘しておかなければ、成り立たない話なのである。オーケストラの写真を、色々、眺めていて導き出された結論である。それ以前、指揮者達が様々な配置をした世界ではあった。たとえば、フリッツ・ブッシュ指揮するドレスデン国立歌劇場管弦楽団などの演奏風景は、向かって左側にファゴット、その右側にクラリネットが座っていて、その上にヴァイオリン両翼配置なのである。

オーケストラ映像には、無言で語りの世界がある。