千曲万来余話その378「怪物的指揮者クナッパーツブッシュ、ブルックナーの8番」

他人を思いやれてこそ自立、傲慢で配慮が無いのは孤立、これは月別カレンダーの言葉で札幌音蔵の特別室で目にすることが出来る。10月の暦でお目にかかったもの。
 どこか、意味が深くて思い当たる節があるものではなかろうか? 何も政治家にばかり当てはまるのではなくて、芸術家、特に指揮者に当てはまるものではなかろうかと思われる。
 深く考えるに、人間関係の神髄を言い得て、妙である。人と人間、この違いを考えてみると、個としての存在が人で、人間というものは社会的動物を指している。社会的というのは、集団を形成して、その人間関係の有るか無しかという微妙な構成要素を指す。
 たとえて言うと、お相撲さんの社会では、横綱と小結には、明らかに差異が有り、その立ち居振る舞いにはおのずから違いが出てくるものであろう。何も、上下関係を指すばかりではなく、その人の来歴、経験の違いによるところなのである。身分差別を意味するのではなく、人として、敬意の発露を促す要素、差別というと、階級社会を意味するものではあるのだけれども、それを無暗に礼賛するわけではなく個別の、人間関係を考慮する時、必要な手掛かりとして、有る。そんな、横綱にこそ必要な言葉なのだ。そして、組織のリーダーにこそ、必要な言葉、人間関係を構築すべき人には心しなければならない言葉なのである。
 さて、音楽の話、指揮者について考えてみよう。ベルリン、ウィーン、そしてミュンヘンという三都で大活躍した指揮者ハンス・クナッパーツブッシュ1888.3.12~1965.10.25はドイツ、エルバーフェルトに生まれ、ミュンヘンで市井の人々に惜しまれつつ物故した怪人、否,快人である。何か、知った風な物言いで、恐縮するのだが、彼の残したレコードには、熱い血潮がたぎる名演奏ばかりで、中でもブルックナー交響曲第8番ハ短調、ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団のものは、すこぶるつきの、記録となっている。
 それでは、何故、ベストセラーとは、なり得ないのか?というと、採用している楽譜は改訂版、ウィーン原典版の楽譜を手にして鑑賞していると、ばっさり改訂した部分が多々あり、カットも多くて、ついていくのに骨が折れるからである。首をかしげてしまい、明らかに、スタンダードというのに憚りがあるというものである。だがしかし、これは不自然ではなく、愛する人々のその執着する度合いは随一といえるであろう。余人をもって真似できない音楽であり、オーケストラプレーヤーの熱意がひしひしと伝わってくる演奏である。そのグレード、合奏の緻密さたるや、抜群である。
 旋律線にスラーがついていても、それを第二Vnではピチカートで演奏しているなど度肝を抜かされてしまうのだけれど説得力はかなりのものだ。1963年1月のウエストミンスター録音、ステレオ録音で古典配置が手に取るように印象的である。
 現代において、封印されていた楽器配置、第一と第二ヴァイオリンが二つのスピーカーから聞こえてくる音楽は、必然的にチェロという楽器が客席と正対する演奏であって、なおかつ、第二Vnが上行してピチカートでメロディーが上がり、左スピーカーから第一Vnが下降する時など、思わず聴いていてうなずくほどの効果がある。いわずもがな、それは、作曲家に対するリスペクトの楽器配置と云えるからであろう。まして、演奏者が指揮者に対するものと重なるから、なお不思議・・・