千曲万来余話その394「フリッチャイ物語その二、ベルリン・フィルとの新世界から」

クリスマスには、プレゼント交換に頭を悩ます人たちも、さぞかし多い事であろう。親として子供達へ、そこで交わされる言葉にサンタさんて本当に居るの?などの会話が定番である。だいたい、信じる子供と、信じない子供と二色に分かれ、人間性も人生に対する夢を持つか否かの、分かれ道。盤友人は、カトリック系の網走、愛香幼稚園で過ごした時期があって、聖夜の劇で東方の三博士の話など記憶していて、そうした夢を持つ人生を過ごしているような気がする。
 特に、プレゼントというのは、神様から人々に与えられた贈り物としての、キリストの存在として象徴シンボルという微妙な認識を理解している。プレゼントには、そのエピソードが込められているという立場に立つ、立たないというのは、それぞれであるにしても、フリッチャイのレコードを再生していると、それを享受できる幸せは、天からの贈り物のように思われてならない。
 1959年九月から十月にかけて、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団ディスコグラフィーを眺めているとヘルベルト・フォン・カラヤンによるドボルジャークとブラームスの録音、カール・ベームによるモーツァルト録音という間に、5、6日と二日間だけフリッチャイ指揮による、新世界からのレコーディングが記録されている。
 ちなみに、その当時、カラヤン51歳、ベーム65歳、そしてF氏は45歳というから、ベルリン・フィルは、壮年期の指揮者たちを迎えて充実の記録を残していたといえるのだろう。
 ところが、彼の死はその四年後という事実から、特に、1961年には引退を余儀なくされていることを考えるとき、彼の芸術は晩年の高貴な輝きを有しているといえないこともないのだ。不思議である。一番若いフリッチャイが、熟成した芸術を記録していたという皮肉な事実に、逆に天からの贈り物という感覚に思いを致すのである。
 彼の演奏風景写真によると、弦楽器配置は、ヴァイオリンからコントラバスまで横一列並び。そこに、彼の音楽性は集約されていて、現代ステレオ録音のスタンダードという側面を持っている。その事実を受けとめた上で、盤友人は、ラファエル・クーベリク指揮1972年録音による新世界からの演奏価値を認める。すなわち、音楽多様性の意義である。弦楽器がVn両翼配置の音楽は、作曲者の意図に一番近い楽器配置であるといえる、貴重な存在は、クーベリック指揮ベルリン・フィルによる記録であるのだが、そのことにより、フリッチャイの音楽が否定されるわけではないのである。
  第二楽章ラルゴの音楽で、金管楽器による聖歌コラール風の音楽では、トランペット・トロンボーン・ホルンの合奏に加えて、テューバという低音楽器が採用されている。音楽として重厚なハーモニーのあとに、インクリッシュホルンという木管の低音楽器が、家路という有名な旋律を演奏する。その後に続く弦楽器の演奏など、フリッチャイの指揮により、音程のピタリと合った精緻で揺らぎない演奏が展開しているのは、当たり前というと当たり前なのであるが、それが切々と胸に迫るのがフリッチャイの音楽であるというのは、当然のことではあらず、まさに、奇跡、そのものである。ステレオ・テイク・モノーラル録音で再生すると、不思議にも、その真価が痛切に万感迫る思いを経験するのは、まさしく、クリスマス・プレゼントを与えられた子供の歓びに似たものを、盤友人は味わっているといえるのである。58年前の記録・・・