千曲万来余話その406「A・ボールト卿、救世主メサイア、管弦楽付き合唱曲の神髄」

エードリアン・ボールト
1889.4/8チェスター生~1983.2/23ファーナム没
 
  昔はウエストミンスターレーベル、後半生はEMI専属だった名指揮者。日本ではなぜか、棒指揮者として不遇。彼は長いバトンを愛用していた。長い指揮棒は、オーケストラ・プレーヤーにとっては、見やすいはずである。打点というのは拍の合わせ方、テンポ、演奏する緩急の合わせ方が、指揮棒を持っていない時より截然と合わせ易い。アルトゥール・ニキッシュ直伝のスタイル、理由は後付けに過ぎなくて師匠から受け継ぎというものであろう。そういえば、トスカニーニやグィド・カンテッリ達も長いバトン使用派。共通するのは、Vn両翼配置で指揮者のバトンが極めて重要な働きを有するといえる。すなわち、第一と、第二ヴァイオリンが演奏を合わせるのに注意力を要する楽器配置、現代の多忙な指揮者たちがネグレクトしていた配置で、長いバトンは、そこのところを意味しているわけであろう。
 ヘンデル1685~1759の救世主メサイアは、演奏に2時間ほど要するオラトリオ、管弦楽、独唱者付きの合唱曲。ボールト卿は、モノーラルやステレオでも録音している。だいたい、オールクラシック イズ Vnダブルウィングといわれるほど、管弦楽の楽器配置の基本となった楽曲である。それは、作曲者が文字で書き置いた指定ではあらず、演奏する効果が、両翼配置を前提としているほどの意味合い。演奏する必要十分条件であり、必要条件、十分条件の両者成立するもの。なぜそのように断言できるのかは、ボールト卿のDECCAステレオ1961?年録音が原点となる。序曲から、終曲に至って納得する。左スピーカーで第一と第二Vnが対話するだけでは、モノーラルというもので、これは、作曲者にとって舞台の下手側、上手側の聞こえ方が前提とされている。右スピーカーにアルト、チェロ、コントラバスが居るのは、低音が指揮者右手側に重心が来て、モノーラルの発想なのである。左右でヴァイオリンが演奏することによって、面白味は控え目に言って、倍増する。そうなると合唱声部配置にも影響がある。SATBという高低差による根拠は一変する。すなわち、ソプラノとアルトの左右対話こそがあるべき配置と云える。実際に、ボールト卿はそのように配置していて、バスとテノールの対話も聴きものである。
 宗教曲ということで、キリスト教音楽の神髄、イロハのイという楽曲なのであり、幸い盤友人は大学生の時分旧札幌市民会館で抜粋を、合唱団の一員として演奏している。もちろん、その時はSATB、オーケストラはVnからコントラバス上手配置であった。これは、時代、というもので仕方のない事、これからの時代は、SBTA、Vn両翼配置で演奏されることを願うばかりである。
 オーケストラにとって、コントラバスという土台がステージで上の方、上手側にあるという時代の違和感をここで指摘しておきたい。ベートーヴェン作曲合唱付き交響曲、第九でも、フィナーレの歓びの主題が指揮者の左手側から始まることの意味は、アルファベットが舞台に向かって左から右へ進んだ方が自然。このことに気が付くか、付かないかで、分かれるところと云えるだろう。ボールト卿のステレオ録音は、そこのところ、気付かせてくれる。ヘンデルの最終アーメンコーラス、かくあれ!という祈りは正に、折り目正しい格調高いレコードになっている。
 今年の冬は、寒い日が長く続いている気温が氷点下の札幌、福岡や大阪では十度という。それでも、暖かい日を待ち焦がれるのは、両翼配置を待ち焦がれるに似たり、必ずや、その時代はやってくることだろう。

 二月二十三日はA・B卿の没後35年目にあたる。