千曲万来余話その485~「田園交響曲、小川の辺の情景、もう一つの弦楽配置・・・」

 霊長類、この言葉との出会いは中学生の時分で、長の漢字の意味が理解不能だった。多分、霊が長いとか、考えていたのではあるが、納得が行かなかった。今までの人生の半分くらいの時でガッテンと行ったのは、長が「おさ」ということではなかろうか?という風に考え始めたころである。すなわち、リーダー、酋長、駅長、校長、社長と漢字二文字を並べて行って、気づいたことである。どこに正解があるわけでなく、あの時質問された尊敬する中学校新米の理科教師は、横を向いたことが記憶に残っている。答えは自分で考えろ!とかいうメッセイジだったのであろう。人に教わるものでもあるまい。 オーディオの道を歩いて今年で四十年になる。当時、何も知らない音楽好きが、とうとうLPレコードのカートリッジ、軽自動車一台分の価格、と適合する昇圧トランスと巡り合うことになった。その時のトータル機器一式の価格相当する代物。そのあまりの実力に腰を抜かす思いをしたのである。ノイマン社製品。
 クラシックのいわゆる名曲に田園がある。運命は絶対音楽で、この曲は標題音楽だから、ワンランク下とかいわれている類の交響曲。1808年に同じく初演されていて、ウィーン郊外、ハイリゲンシュタットでの作曲になる。第二楽章、小川のほとりの情景で、小鳥のさえずりが模倣されている。ここで、指摘しておかなければなないことは、耳の聞こえていた作曲者の自然観、世界観の表明ということであろう。聴覚障害を背負った作曲者の聞こえていた世界の表現なのである。第五楽章 嵐の後の喜びと感謝、牧人の歌。まさに、感情の世界、描写にとどまらない人生観の音楽と云うことなのである。この幸福感こそ聴くべき音楽、オーディオの目標なのである。
 エードリアン・ボールト1889.4/8~1983.2/22、ロンドン・フィルの首席指揮者を歴任、大指揮者ニキッシュに師事している。ホルストの惑星を初演するなど、英国の指揮界の大御所的存在。なぜか、わが国では過小評価されている。
 コピーライト1978というから、77年頃録音になるベートーヴェンの田園交響曲。第一ヴァイオリンの奥にチェロが配置されている。右スピーカーからは、アルトの刻み、第二ヴァイオリンの応答などが、クリア鮮明でこの上ない。だから、左右のスピーカーでそれぞれ中低音と高音域の分離が聴きものである。すなわち、チェロとアルトが左右に開かれているところが、新鮮であり、このような感覚になったのは、初めてのことである。これは、昇圧トランスの周波数特性が、フラットで違和感なくステレオの分離が達成されているところよることが、大である。
 ステレオ録音初期は、明らかに、左スピーカーからヴァイオリン、そして右スピーカーにアルト、チェロが押し込められていたのである。左スピーカーで第一と第二ヴァイオリンが対話し、右スピーカーでアルトとチェロが音楽を交わすという図式である。演奏者としては、対話を意識しているのであるのだが、聴いている側としては、ステレオ感により、ネグレクトされていたと云えるのである。ボールトのステレオレコードが日本では、あまり流通していなかったという事実は、こういう事情が働いている可能性がある。
 瓶ビールは、ピアホールの味わいを追求しているのであるけれど、LPレコードは正に、その配置を徹底するべくレコード量産は、成されていたといえるであろう。カラヤンやバーンスタインがもてはやされるのが、マーケット市場であり、その中で対する、クレンペラー、モントゥー、クーベリックらによるステレオ録音は、話題にも上らないところに、日本国音楽市場の不幸は、確かに、有ったいえるかもしれない。新しい時代にこそ、ボールト卿のステレオ録音が再評価されることを、期待しているのであるが・・・