千曲万来余話その499~「シューベルトのグレート、開明期管弦楽団により展開する意義・・・」

 先日、札幌文化交流センターのスカーツコートにてモーツァルト研究の泰斗、海老沢敏先生のレクチュアコンサートに足を運んだ。彼は盤友人が学生時代から文献で親しんだビッグネイムでその出会いからかれこれ50年くらい経過している。先生の文章は音楽史に則り、エピソードが具体的で興味深い、モーツァルト研究に必須の世界である。この夜も、ケッヘル番号の説明から始まりマリア・テレージアとの関係、ザルツブルグ時代からウィーンへの展開などなど魅力的なお話をされていた。時間も三十分ほど、客席を前にして一点に視線を向け、昔から変わらない話す速度で穏やかな口調、もちろんノー原稿、そのきっちり守られた時間配分に経験豊富さを感じさせ驚きを禁じ得なかった。この秋、米寿を迎えられるという。
 こちらは、交流電源60ヘルツ変換器を使用する段階を迎えて、新たな展開を見せ、名古屋から大阪以西方面「スピーカーの鳴りっぷり」、そちら在住のみなさんにとって気が付かれないだろう世界を経験した。前提とする50ヘルツ世界を経験しなければ分からないはずである。だから60ヘルツとの違いは両方を知って、初めての経験となる。それは演奏する躍動感が克明になりワンランク高みのオーディオ展開である。
 英国ヴァージンクラシックスのLPレコード、1988年コピーライトのもので、チャールズ・マッケラス指揮、オーケストラ・オブ・ディ・エイジ・オブ・エンライトメントによる。時代楽器使用の管弦楽団。当時から指摘されていたのは、Vn両翼配置。中央にアルト、チェロが配置され上手にコントラバス、手前に第二ヴァイオリンが座席している。交流周波数が変換されて一段とその世界が如実にリアライズされる。
 両翼配置の効果と云うのは、第一が左側、その対向として第二ヴァイオリンが右のスピーカーから聞こえることになるのは、作曲家の意志に忠実と云うことである。つまり、第一と第二を並べるのは演奏者のハードルを下げただけどころか、カチャカチヤ演奏する無意味化された事態から、にわかに、意味を持つシートに第二Vnが座ることである。これは、そんなこと意味ないとする判断が、演奏者優位の発想であり、作曲家の立場に立つと納得が行く音楽である、ガッテン!それは、道徳的犯罪を犯しているといえるだろう。それほどの大問題でそう云える時代展開だ。
 マッケラスの演奏は、テンポの設定が、わりと軽快、ということは速すぎないということで、楽器自体がモダン楽器と異なり、重たくならないのである。速すぎるのは具合が悪いのであって、程よいテンポのキープこそ、管弦楽の醍醐味である。強弱の刻印がこころよく伝わる音楽こそ必要であってアレグロとプレストの区別こそ必要な態度である。
 両翼配置を提案すると、最初、あんたは原理主義か?と嫌う人がいる。そういう人は、現在がどういう歴史背景か考えるとき理解可能となる指摘と云える。原理主義と云う指摘は、態度としての否定的反応である。経験すると氷解する音楽が、両翼配置である。理屈でいくと、まるで分からないのであろう。議論をするとき、経験のあるなしは、前提とする立場が異なる。意味を理解するのは、理屈にあらず、経験でしかない。エイジオブエンライトメント、言葉の意味する開明期とは、作曲者の時代であり、そこに還れ!という発想は、現代に対する問題提起にほかならない。現実の展開は、世界大戦によるドイツ文化の否定が一因であることは否めないもので、アメリカ型配置が席巻したのは意味ない事ではない。第二Vnとチェロが交換されると済む話は意外に「コロンブスの卵」的展開である。シューベルトはじつに偉大だ!・・・