千曲万来余話その504~「サンサーンス、オルガン交響曲セルジュ・ボドと抑制の美学・・・」

 文ひらき月、ふづき、季節は秋で七夕に由来する名前、えっ、秋だって?これから夏だというのに・・・これは旧暦の話で、新暦の7月でも3日は水無月の朔日ついたちに当たるから観念のスイッチを効かせる必要がある。
旧暦で云うと今年の七夕(季語、秋)は新暦8/7で、8/8が立秋だ。
 セルジュ・ボド1927.7/26マルセイユ生まれは、1981.4/24札幌厚生年金会館第214回札幌響定期公演のタクトを採っている。メイン曲はサンサーンス、交響曲第三番ハ短調オルガン付き(平部やよいorg)、精緻な演奏に仕上がっていて、何より、演奏者たちの指揮者に対するリスペクト感がひしひしと伝わり吉田真吾さんのティンパニー連打で圧倒的名演奏の幕切れを印象付けていた。
  サンサーンスのこの名曲、LPレコードではポール・パレー指揮デトロイト響マルセル・デュプレorg<57年録音>やシャルル・ミュンシュ指揮ボストン響ザムコチアンorg<59年>、エルネスト・アンセルメ指揮スイス・ロマンド管スゴンorg <62年>、ユージン・オーマンディ指揮フィラデルフィア管ビッグスorg <62年> 、プレートル指揮パリ音楽院管デュルフレorg<63年>、マルティノン指揮フランス国立放送管マリークレール・アランorg<70年>、カラヤン指揮ベルリン・フィル、ピエール・コシュローorg<81年>などなど目白押しの名演奏で共通するのは豪放の、豪快な傾向のもの。そんな中で、セルジュ・ボド指揮ロンドン・フィル、ジェイン・パーカー・スミスorg<82年>のEMI録音はワトフォードタウンホール収録ディジタル、83年スコットランドでのオルガン後採りによるもの、ジェインは佳人オルガン奏者で異色盤、この後採り方式はカラヤン指揮コシュローorg盤パリ、ノートルダム寺院での後採りでリリースされ話題盤だった。
 オルガン交響曲は1886年5/19、ロンドン・フィルハーモニーソサエティの作曲者指揮演奏会初演になる。第1楽章の後半部はポコ・アダージョ少し緩やかで、一説によるとサンサーンス、ご自身の令嬢逝去を悼んだレクイエム鎮魂の曲といわれる。ここに軸をおいた演奏が、ボド指揮の音楽に当たり、ミュンシュ指揮のような即興性に重きを置いた豪放磊落な演奏とは一線を画している。すなわち、ボド指揮盤はクレッシェンドも時間をかけてダイナミックス強弱の幅も大きい。そして、ピークの時、トランペットの吹奏は、けたたましさと無縁のものに決めている。抑制の美学、これは、曲の開始から一貫して大団円に至るまでキープされているのが、よく伝わることになる。
 口はばったいけれども、第一と第二ヴァイオリンの掛け合いなど、これらのLPレコードでは左のスピーカーだけで行われていて、Vnダブルウイングでは、左右二つのスピーカーで実現される話である。モノーラル録音の世界ではあるけれどトスカニーニ指揮NBC交響楽団クックorg<52年>のものは、格調高い両翼配置型による名演奏。札幌交響楽団620定期公演ユベール・スダーン指揮orgシモン・ボレノ第20代札幌コンサートホール専属オルガニスト、大変立派な演奏会だった。実演で聴いて分かることは視覚の上でも、中央にチェロとアルト、舞台両袖にVn群というのが理想なのであって、現代主流の第一と第二ヴァイオリンを束ねる配置は、正に、片手落ちの演奏だといえる。評論家たちが誰もこのことに触れないことは、時代転換期においてそれが誰の仕事か? 問われているのである。
 6/23Eテレでベートーヴェン交響曲第5番ハ短調ホルスト・シュタイン指揮NHK交響楽団1992年4月演奏が放映された。テンポはアレグロで、プレスト風のものではなかった。Vn奏者の弓さばきアップダウンが印象的で、一糸乱れない、389小節目全休止も指揮振りは一瞬溜めたもので、全演奏者と客席双方の緊迫感を高めていた。そこのところに一瞬でもブウイングが入ると、膨らんだ風船に針を刺すようなものになることだろう。テンポをさらに一段階緩めると、無意味化が果たされる。すなわち、作曲者のものとはならない証の瞬間である。
 「運命」の緊張感を高める演奏は、2008年小澤征爾指揮のNHK響、第一楽章終了で拍手が起きたことがあるほどである。ところが両翼配置型採用トスカニーニ指揮のものなどは、ステレオ録音になるとすると、左右スピーカーの掛け合いがものいう配置となる。これは、時代というもので、音楽としてはこれまでを保守するのではなく、その否定する指揮者たちが出現することを待望するまでだ。テンポのアレグロ「快速に」は、快いテンポということであって、プレスト「急速に」に傾いてはならない。
 シュタイン指揮を否定するのではなく、これからの演奏の有り方として新時代到来を体験したいものである。ちなみに、ボド指揮の「オルガン交響曲」もそこのところ一時代前の配置解釈といえる。これは否定するための評言ではあらず、これからの指揮者たちに期待することなのだ・・・