千曲万来余話その506~「ヴォーン・ウィリアムズ1872~1958ミサ曲ト短調、コゥリドン・スィンガーズ・・・」

 7/16午後7時のニュース、米国大統領は、報道陣の質問に対して、クァイエットゥ!を繰り返し発言していた。問題に感じたのは放送協会の字幕で、だまれ!とされていた事。盤友人は疑問を感じて辞書を引いたら、だまれ!は、ホワッダズ!であって、静かに!というのが正しいだろう。すなわちメディアの発信は、たとえ意訳であってもニュアンスが異なることに対して、細心の注意が必要ということである。
 コゥリドン・スィンガーズ、corydonコリドンがネイティヴに近いのかもしれない。1983年4月ロンドン録音で、耳にしてすぐ気の付くことは、ソプラノの後ろにバスが発声していること。つまり、SATBという合唱のセッティングで日本の多数派とは、違うことだ。女声SAが前列で男声バスは指揮者の左手側、テノールは右手側というステレオプレゼンス定位が決まっている。さらに聴き進んでいくと、左チャンネルにソリスト四人配置されていることがわかる。
 ミサ第一曲はキリエ、エレイソン神よ憐み給え、クリステ、エレイソン、キリストよ憐み給え。第二曲グロリア、神に栄光あれ、第三曲クレド、信仰告白と続いていく。コーラスの醍醐味は、一斉にフルコーラスもあるけれど、アルト、テノール、ソプラノ、バスと自然発生的に単声部がそれぞれ歌い始めるところにある。すなわち、指揮者右手側の開始から左手側へと対話が、魅力、というのがステレオ録音の生命線である。SATBというのは、それらに気が付かなくなるのであるといえる。それは、作曲者が指揮者の背後、客席に居るという前提の上での話であって、二十世紀後半のステレオ録音の前提は、左側スピーカーからソプラノ、次第にアルト、テノール、右側スピーカーからバスという高低音グラデイションの配列、セッティングの前提となっている。
 それは、時代がそうなのであって、これからの時代は、多数派として女声前列、後列が男声という配列を期待する。というのは、オーケストラがコントラバス中央というピリオド楽器録音の興隆により固定観念が覆されて、コントラバスとチェロが、第一ヴァイオリンの奥席というVnダブルウイングが復活した二十一世紀劈頭である。よくオットー・クレンペラーという指揮者を頑固者と勘違いしている御仁もいるのだが、さにあらず、頑固者とは、Vnダブルウイングをタブー視する指揮者に他ならない。すなわち、その御仁の師匠にあたる指揮者たちは古いとして否定した配置がダブルウイングに当たりその教えに従っているまで。その前提を否定すると新しい時代こそVn両翼配置である。
 録音技師にとって、右側スピーカーから低音楽器が聞えた方を良しとする。それは分かり易い話しなのだが、作曲者の舞台パレットは、第一と第二ヴァイオリンの対話こそ、対比コントラストになる。ところが、時代として、高音域低音域という対比で育った耳には、なかなか理解に時間がかかる、慣れという問題がある。ソプラノとバスは、和音の上で外声部すなわち、近しい関係にある。テノールとアルトは内声部という長調か短調か調性を決定する役割がある。和音というのは、和する、調和する音と云うまで。
 コゥリドン・スィンガーズは、10名ではなく2~30名程度の中編成のアンサンブルに聞こえる。これは聴いた上での推測であって正確なことではない。マシ(テ)ュウ・ベスト指揮のコーラスは、小編成にあらず、多すぎもせずに声部の厚みがしっかりしていて、大変聴きごたえがある。
 オーディオは何のためにあるのか? 贅沢ではなく、ステレオ定位などの解析向上にある。お金がかかる、ではあらず、お金をかけるのはそのためにある。60ヘルツ変換器を購入して飛躍的な向上を図り、合唱音楽が一段と面白味を増した気がするのは・・・