千曲万来余話その576~「フランクVnソナタ、ある追慕2020年回顧・・・ 」

 ~百万遍の菓子屋の二階に、いまはなくなった小さな喫茶店があって、客の少ないのを幸いに、そこでたて続けに聴いたフランクのヴァイオリン・ソナタなどは、私の心をそうした危ない断崖に立たせてくれる種類の音楽であった。(青春と音楽と感情と~音楽の友1967年5月号)フランチェスカッティのヴァイオリンとカサドジュのピアノで吹き込まれているそのレコードは、四楽章を聴くためには一度裏返さなくてはならず、店の女の子が面倒臭そうに電気蓄音機をいじっているあいだじゅう、私は有名なメロディを思わず口ずさんでしまわないために、文字どおり渾身の力をふるって自分をおさえながら待つのであった。それは私の感情をかきたてながら鎮めてくれる音楽であり、私自身のよりはもうすこし賢く、もうすこし成熟した青春が呼びかけてくれる声でもあった。―――突然、窓の下にけたたましい音をたてて電車がとまり、見おろすと街路樹のまばらな葉むらをすかして、見知った顔がひとりふたり、大学の方へむかってアスファルトの道をわたってゆくのが見えたりもした。さぼっている講義のことがふと心をかすめ、私は、いま聴いたばかりのレコードをもう一度聴きなおそうと、わけもなくばかばかしい決心をしたことを思いだす~「座右の」音楽書=ハンス・リック「音楽美論」の思い出、評論家山崎正和=
 田中美知太郎の後継となるべく西田幾多郎の系譜に属する哲学部美学科出身の劇作家は今年、享年86にして鬼籍の人となられている。彼は劇作により岸田国士戯曲賞受賞作・世阿弥を発表、米国イエール大学留学後同校にて日本文学の客員教授に就任するほか60年代は評論活動で脚光を浴びている。「芸術現代論」では現代音楽会の評論で、音楽はもはや不必要な芸術ではないか・・・とか書いていた。切れ味鋭い舌鋒は慧眼にして、森鴎外=闘う家長、三島由紀夫=劇的なる日本人・平知盛、いずれも時代を看破する書物を刊行していた同時代の高校生として盤友人はその膨大な情報をまともに浴びていた。
 セザール・フランク1822.12/10リエージュ生~90.11/8パリ没は1886年Vnソナタ、イ長調を同郷の演奏家ユジーヌ・イザーイに献呈している。第一楽章やや快速で、充分に中庸な速さで、第二楽章快速で、第三楽章叙唱、幻想曲充分に中庸で、第四楽章やや快速で少し動いて。ジノ・フランチェスカッティ1902.8/9マルセイユ~1991.9/17は父親がパガニーニ弟子エルネスト・シヴォリの門下生でマルセイユ響のコンサートマスターのイタリア人、母親はヴァイオリン奏者のフランス人。マルセイユでクライスラーの演奏に出会い5歳で公開演奏会10歳でベートーヴェンの協奏曲を演奏したという。愛奏器はグァルネリウスでフランクのVnソナタを1946年4月に録音。ピアニストはロベール・カザドシュ1899.4/7パリ生まれ~1972.9/19パリ没。
 ソナタの冒頭は平行調、それが長調で解決する。今年11月フォノイコライザーを接続し、12月には外部シャーシアースとして、光城精工製品の「Crystal E」を接続、モノラル録音LPレコードの再生においても限りない透明感を獲得するに至った。オーディオのグレードアップにより、情報獲得精度が緻密になることで演奏の表情は格段と向上、フランチェスカッティの、悲しみの音色から輝かしいフィナーレという音楽の喜びを体験する。これは今まで経験してこなかった境地であって、仮想アースというオーディオ・アクセサリーの威力を遺憾なく享受することが可能となった。
 たゆみないクラングフィルム・オイロダインとの牛歩の如き26年間ここにきて皆様にご報告できる仕合わせをともに分かち合いたい、読者のみなさまのアクセスをひしひしと感じて。来る年が明るいものでありますよう・・・fine