千曲万来余話その585~「ショパン、バラード集追悼フー・ツォン入魂の至芸・・・」

 夜半、南東の星空に向かい、天頂にひしゃく星の柄が認められるとそのしなりに連なるのが春の大曲線といわれる牛飼い座のアークトゥールスその先におとめ座のスピカが目に鮮やか。さらにしし座のデネボラが見えると春の大三角形になる。宮澤賢治さんもよたかの星で物語するが今時はコロナウイルス禍で一年がたち、2020年12月28日ロンドンでピアノ奏者フー・ツォンが感染して享年86歳の人生を閉じていた。彼は1934年3月10日上海市出身、父親は芸術学院のフランス文学翻訳家として活躍するも、1966年から文化大革命に巻き込まれ非業の死を遂げている。父から手ほどきを受け上海交響楽団のイタリア人指揮者パーチに10歳の頃本格的に修得した。
 1955年には、ショパンコンクールで第3位、グランプリはアダム・ハラシェヴィチ次席はウラディミール・アシュケナージだった。日本人ピアニストとして田中希代子第10位。コンクールにランクは付きものなのだが、陸上競技100m走のように順位は明確なものでもない。フー・ツォンはその時「マズルカ賞」を受賞。ワルシャワ音楽院で研さんを重ね、1958年ロンドンへ移り翌年のデビューリサイタルは、センセーショナルなものだったと伝えられている。彼はヴァイオリニストのユーディー・メニューインとの演奏を通して英国で活躍しメニューインの娘婿でもある。
 フレデリク・フランソワ・ショパン1810.3/1ワルシャワ近郊生れ~1849.10/17パリ没は、ピアノの詩人ともいわれているのだが、フランス人を父とし母はポーランド人。革命前夜1830年秋にウィーンへの楽旅の途中でワルシャワ陥落を知りパリへ向かい、以後はフランスで活躍する。その代表作は作品11の第1番ピアノ協奏曲ホ短調、前年に作曲されていた第2番ヘ短調協奏曲は作品21、どちらも青春の息吹きのようなポエジー詩情に満ち溢れている。3曲のピアノソナタ、前奏曲集、練習曲集第1巻第2巻、ポロネーズ集、ワルツ集、マズルカ集、夜想曲集・・・スケルツォ、バラードはそれぞれ全4曲からなる。第1番ト短調作品23は1831年ウィーン~35年パリで改訂、第2番ヘ長調作品38は1836~39年パリ、第3番変イ長調作品47は40~41年ノアンで、第4番ヘ短調作品52は1842年パリで作曲されている。バラードとは中世の物語詩をさしているが、ショパンはピアノ曲として着想し、ポーランドの詩人ミツキエヴィチの詩をもとにしたといわれている。
 ベートーヴェンは32曲のソナタを作曲しているが、ショパンは一形式にとらわれることなく、ピアノ曲を創作したといえるのだろう。フー・ツォンの記録は数少なくモーツァルト、シューベルト、ショパンなどLPレコードで入手できるのは幸せである。1983年8月録音になる演奏は、比類なき情熱的な演奏でしかも、弱奏部の詩情は抜群の静寂感に満たされていて、グランドピアノとしてその表情のダイナミックな振幅に圧倒されてしまう。確信に満ちたショパンがそこに居る。フー・ツォンはワルシャワ音楽院で身に着けたショパンを終生披露していて、確立された躍動的なピアノ演奏の記録に徹している。だから夜想曲にしても、ピアノの倍音を綺麗に記録し、集中力の抜群な耳を、知らしめるに充分なデジタル録音になっている。クラウディオ・アラウがアナログ時代の最高度の録音を記録しているのに比肩して、クオリティ品質製の高いLPレコードをリリースしたといえるのだろう。
 フー・ツォンのピアニズムは、耳にしてすぐ気の付くことなのだが、音と音の間の連続性が聞きものである。フレーズ感覚が並外れて貴重であり、力を込める喉を引き締めるような唸り声が、随所に記録されていて、あたかも、玲瓏たる陶磁器の白磁のつやが青白い光放つが如き、謹んでご冥福をお祈りいたします・・・