千曲万来余話その607~「B氏ハ短調交響曲5番作品67、ワルター指揮する名演奏・・・」

 モノラル録音すなわち、音が悪い・・・のかなあ?はさておいて、モノラルカートリジ対応専用アーム搭載のガラード301を採用してその再生する音楽の生々しさに感服する。つまり、完全な再生システムで再生する音楽は、不足するところのない立派な記録である。1950年2月CBS録音、指揮ブルーノ・ワルター、ニューヨーク・フィルハーモニックは、情報量が豊かな演奏空間を再現して、演奏の機微が余るところなく伝えられる。
 冒頭の5小節、すなわち、ソソソミー♭、ファファファレー、という音型は2小節目と5小節目にはフェルマータ延音記号を付けている。ここでスルーできない問題点として、後者は同じ音が4小節目に有りタイでもって拡張されている工夫である。ベートーヴェン交響曲5番を取り上げるとき、この楽譜表記の工夫を読み解かずに、「1小節分長いフェルマータ」という説明に、「一寸待てよ」の疑問を持つことが必要とすべき態度であろう。フェルーマータという記号は通常その音符の2倍程度の長さで拍節をとめる記号である。よく考えるに、いったん拍節を止めておいて1小節分長くするという説明が問題なのだろう。自由な長さにおいて、第2小節目より、第5小節目が1小節分長いなどということなど、成立させること自体。フェルマータの意味を深く思考していない説明である。無理があるというものだろう。ここでブルーノ・ワルターの解釈は始めの延音記号の方が明らかに長い解釈を採る。5小節目が1小節分長いという説明を否定しているのである。すなわち、演奏上の問題としてではなく、楽譜表記上の問題提起とする解釈である。5小節1単位で考えるとき、第一楽章全体構造、124小節リピート501小節演奏する時、625小節すなわち5×5×5×5という数字の上での完全性にある。
 開始ソ♭ミファレという4つの音は、短調と長調の決定を避けている。作曲者は、長調なのか短調なのかの疑問解決を先送りして、第4楽章の最後の音ですら、全楽器を主音のド、Cの音だけである。これはこの作曲の徹底、「短調から長調へ」という説明を否定する作曲態度の表明であろう。例えば、第5番作品67という数字並び、これをスルーする精神と、B氏の意志は対峙する。「完璧性」というものは、第4楽章で追加する楽器が、ピッコロ1、コントラファゴット1、トロンボーン3という5つの楽器採用という説明にも表れる。
  第1楽章の終結には、25小節5×5という作曲設計で、ベートーヴェンの作曲意志は、楽譜表記に表現されている。こういう指摘をするとまるで音楽と無関係?という疑問が生まれるだろうが、ブルーノ・ワルター氏ですら、冒頭の謎を解けていない。なぜなら、389小節目全休止を採用しているから。502小節の演奏は作曲者の意志とは無縁の音楽だ。
 モノラル録音再生に成功した時、マイクロフォンと楽器への距離感、空間を再生する。だから、木管楽器をオンマイクで録音する時、弦楽器の量感を再生することが出来ず、違和感が派生する。弦楽器、管楽器、ティンパニーという楽器空間は、その距離感に面白味が有る。第2楽章で弦楽器が、ザーザ、ザーザ、ザーザ、ザーザのあとにクラリネットの旋律が加えられる音楽などにその意味するところが分かる。
 左右スピーカーの定位ではなく、全体の空間感は、オーケストラ再生の醍醐味として、オーディオシステムの目的である。たとえば、ファゴットとクラリネットの二重奏など、楽器の音として倍音が加わることはこの上ない歓びである。デジタル録音が目的とする「ノーノイズ世界」とは手のひらと手の甲ほどの「情報」の違いである。
 ブルーノ・ワルター指揮する理想世界は、情緒の排斥と意志世界の再生に尽きる。アインザッツを整える積み重ねの音楽は、壮大な時間を体験させる・・・