千曲万来余話その653「シベリウス7番オーケストラの愉しみ・・・」

 今月の3日キタラホールでロンドン交響楽団演奏会に足を運んだ。サー・サイモン・ラトル指揮でシベリウス大洋の女神、タピオラとブルックナー7番を聴いた。満席の聴衆は大喝采を贈り、盤友人にとっても指揮者と楽員のファミリーな関係性にその印象を深くした。
 というのも、以前キタラホールでのベルリン・フィル演奏会でラトル指揮には虚無感を抱いていたからである。世界最高峰のオーケストラを相手にしても違和感が感じられたからである。すなわち英語とドイツ語をそれぞれ話しての会話というか、親和性という感性の世界での一体感に疑問が有った。我田引水にあらず、第1と第2ヴァイオリンをどうするか?という根本問題による。
 機能主義という近代に到達したオーケストラは、現在、古典世界回帰というヴァイオリン両翼配置の音楽にユーターンしラトルはロンドン響の指揮者ピエール・モントゥー時代の配置に回帰して、舞台中央にアルトとチェロそしてヴァイオリン両翼という弦楽配置を実演、コントラバスをウィーンフィルニューイヤーコンサートの如く舞台奥横一列というものである。上手から5人目に首席奏者を配し、弦楽器8弦バス、9チェロ、11アルト、13第2Vn、15第1Vnそしてホルン上手配置は、音響の上でベストな選択だろう。
 シベリウスの交響曲7番ハ長調作品105は1924年に作曲されて以後シベリウスは交響曲を卒業している。単一楽章で、22分余りの後期ロマン派に共通する、12音音楽に展開する直前の調性を備えたオーケストラ音楽。序奏部分は、ハ長調の調性を明らかにすることなく、近代の直面した混沌の世界を体験することになる。社会としても、高度経済成長を遂げている時代は、右肩上がりといって、目的目指してまっしぐら、不安を感じている暇はないかのごとく、たとえば、オーケストラは第1、第2ヴァイオリンを揃え、アルト、チェロ、コントラバスという具合に配置させて音楽会は過ぎて行った。ところが経済低成長時代突入、環境問題、人口問題、多様性、大分裂の時代展開を経験している現在にあって、1973年プリントのLPレコードでパーヴォ・ベルグルンド指揮するボーンマス交響楽団のシベリウス録音は、福音である。当時EMI録音で、クレンペラー指揮とかエードアン・ボールト卿の指揮した録音は、古典的配置ともいえる第1ヴァイオリンの側にチェロ、コントラバスの音楽は展開して、右スピーカーからホルンの吹奏は鮮やかである。
 ハ長調の調性が姿を現すまで序奏部分はあるのだが、ティンパニーがトレモロで「ド」の音程を響かせる時それまでの不安定感は、安定感を獲得する。フィンランドの作曲家ヤン・シベリウスは、時代として新ウィーン楽派と同時代でありながらも12音音楽の袋小路とは異なる、北欧神話の世界を経験させる。シェーンベルク、ベルク、ウェーベルンという時代のピークは、機能主義に似つかわしい音楽なのだろうけれど、米国人ジョン・ケージは1954年コロンビア大学で鈴木大拙を聴講して
東洋の心に接するも、「4分33秒(全休止)1952」を既に発表していた。音を聴くこととは、「ピアノ」という楽器世界「聴く」ことを提示する。どういうことかというと、たとえば、「調性音楽」が目の前の世界だとすると、「12音」の世界はその周囲の世界を表現する作曲になる。すなわち、「時間」「空間」の両方を認識する時にはじめて、音楽の世界は進行体験することになるのである。
  地球規模で現在直面する問題は、歴史に学ぶ必要がある。「プラハの春」ベルベット革命は、戦争回避する重要なノウハウがあるだろう。ロンドン交響楽団の在り方は単一思考を克服してオーケストラのこれからを示唆する「鍵」がある。サー・サイモン・ラトルはP・ベルグルンドを継承して成功しているといえる・・・