千曲万来余話その655「トリスタンとイゾルデ前奏曲と愛の死、作曲者W氏のあれの話・・・」

 W氏は東プロシアのケーニヒスブルグ市で女優ミンナ・プラーナー23歳と1836年11月24日婚姻を結ぶ運びとなった。(出会いは2年前のことだった)新郎は1歳多く、新婦は4歳も少なく歳を偽ったうえなんと10歳の私生児までいたという。式場はトラークハイム教会。ライプツィヒ1813年5月22日戸籍上の父カール・フリードリヒ・ワーグナー1770~1813の9番目の末子として誕生、彼は半年後の11月22日チフスで死去。母はヨハンナ・ロジーナ1774~1848同地出身。顔立ちは美人で性格も明るく、ユーモアを好み母性型の女性であったと伝えられている。ウィルヘルム・リヒャルト・ワーグナー、父の死後9か月して母は再婚、ドレスデンへ移り住むことになる。この頃ナポレオンの最終的没落、リヒャルトは後年革新精神発展の土壌となる。22歳指揮者の彼はライプツィヒで演劇部のミンナに求婚の手紙を書く。一座を脱退していた彼女は年内に一座へ復帰。この頃の作品が歌劇「恋愛禁制」、みじめな大失敗に終わる。美貌のミンナは男たちに取り囲まれていたものの彼と挙式、しかし劇場を去りドレスデン近郊へと移住した。すったもんだが有り1839年7月ロンドンへの航海となる。9/17にはパリに到着。3年後にはドレスデンへ戻る。12月にフランツ・リストと親交を結ぶ。1848年1月母急死、ワーグナーは50年37歳でボルドー在住のジェシー・ロソー人妻と恋愛に落ち、4月妻ミンナを避けてパリ亡命、53年40歳でリストの次女コージマ14歳に初対面し「ラインの黄金」作曲開始する。44歳の時、ヴェーゼンドンク一家と同居しマティルデ夫人と相愛、1859年トリスタンの総譜完成、62年11月ミンナと最後の別れ、翌年11月ベルリンの馬車内でコージマと秘密の契り、64年ルートヴィヒ二世は破格の待遇で迎える。65年4月同居していたビューロー夫人コージマとの間に長女誕生、6/10ミュンヘン宮廷劇場で「トリスタンとイゾルデ」初演、66年1/25正妻ミンナ57歳で死去、67年2月次女誕生69年長男ジークフリート誕生1870年ビューロー夫妻法的離婚し8月コージマと晴れて結婚、1883年明治16年2/13狭心症発作、午後3時半頃死去、満69歳9か月。3年後6月にバイエルン王ルートヴィヒ二世は謎の死去を遂げる。
 「トリスタンとイゾルデ」はヴェーゼンドンク夫人マティルデと出口のない恋愛体験、その影響のもと作曲された円熟期の名作で最高傑作のひとつ、半音階的進行、無限旋律と呼ばれるメロディの継ぎ目をなくした手法が編み出されている。古典的な和音感覚は調性崩壊の寸前までつきつめられて、すでに現代音楽の扉を開いたとされている。94年にはドビュッスィ作曲、牧神の午後への前奏曲が書き上げられている。
 11/27日曜日札幌コンサートホールキタラP席で「トリスタン」前奏曲と愛の死を鑑賞。チェリスツの斉奏する開始からやや進んだところ、第1と第2Vnのうねるような連続する掛け合いに気が付いた。LPレコード1960年録音オットー・クレンペラー指揮するフィルハーモニア管弦楽団をチェックすると明らかに左スピーカーから始められ右スピーカーで呼応している。何というか、ステレオ録音では定位といって左右感覚が成立して演奏会ではスルーされている感動が約束される。まさにトリスタンとイゾルデの左右感覚が実体験できるのである。舞台で云うと、上かみ手と下しも手の掛け合いであり、音楽には必要な感動であろう。つまり作曲者ワーグナーはこの効果を作曲したのであって、現代の多数のオーケストラは、第1と第2Vnを束ねることにより破壊していることである。演奏家には自覚のない破壊とでもいえる機能主義による結末である。お正月にウィーン・フィルは見事ヨハン・シュトラウスの時代配置に戻り、画期的である・・・