千曲万来余話その708「ベートーヴェン悲愴ソナタという浪漫への旅立ち・・・」
開始冒頭の和音は強い打鍵で、それはあたかも僧侶が梵鐘を打ち鳴らす姿をほうふつとさせる。西洋教会の鐘とは異なり、倍音をたくさん含んだ一打音である。京都知恩院への参内は今から55年余り前高校修学旅行のときの秋、明るい昼下がり日本最大のとかいう案内を耳にしてさてそれならばと覚悟して参った次第である。「悲愴」ソナタはカール フォン リヒノフスキー公爵に1799年献呈、彼にはニ長調交響曲も捧げられている。公爵夫人の姉エリーザべトを嫁としたのがラズモフスキー伯のちの侯爵。ハ短調のソナタ開始グラーヴェ荘重に は如何にも亡き人への告別という印象を受ける。
エリー・ナイ1882~1968はデュッセルドルフ出身も、Nの付く苗字はイタリアの家系でナポレオンとも由緒ありを伝えられていた。大戦時には国家社会主義政党への忠誠を示し政治的アナウンスにも積極的に活動、仏のアルフレット・コルトーも同じ路線、戦後なかなかつらい立場に居たようである。指揮者フルトヴェングラーは、司法的に非ナチ化裁定を獲得して戦後再活動するも1954年11月には不本意な病死をとげて、戦中のドイツ国内での芸術活動を考えるとき、エリー・ナイの芸術も同じくその点の考慮は必要であろう。特にナイのピアノ演奏は確固たるドイツ精神の発露であり、そのベートーヴェン解釈はLPレコード醍醐味も三本の指に数えられるべき音楽といえる。そのスタイルはギーゼキングとパラレルでノイエザハリヒカイト新即物主義と並行して称賛されるものである。スケールの宇宙的規模は息をのむほどである。
モノーラルレコードはそのカートリジをモノラル仕様にチェインジすることにより、極楽のレベル。どういうことかというと、コンパクトディスクで聴く印象と別物。スピーカーの鳴りは左右の一体感というべき、眼前に存在するピアノ演奏という印象はアナログ愛好家にしか経験はない。つい最近、フォノイコライザーの下にスペーサーとして牛革、四角い端切れレザーを噛ませてみたところ腰を抜かして天を仰ぐ感動を、体験した。そのことにより、エリーナイの和音打鍵の際、左手小指最低音がキー腱を押さえている間、その音が延びている即ち倍音が鳴っていて、夜空に延びるサーチライトの光線のごとく印象を受ける。
平安に抒情的で、歌謡性に溢れたアダージオ楽章、高みを目指すのに、一度下げてから上昇するあの、ポップスロックでも耳にするベートーヴェン「悲愴」の旋律は、エリーナイの音楽として無類の、アポロン的壮大な宇宙観の中にあるAirのごとくであり、この演奏には愛がある。よく日本人の疑問として愛はあるんかというフレーズを耳にするものだが、悟りの境地絶頂としての愛、この悟りというのが曲者で恋というのは下に心があるとか揶揄されるあの恋愛の愛とは少しく異なる悟りの愛である。
ナイの演奏家として活躍時代たとえば、ディヌ・リパッティなど使用楽器はベヒシュタインでリストの孫弟子ウィルヘルム・ケムプなどもモノーラル録音時代の使用楽器はそれであり、共通する感覚が有る。1900年頃、ヤマハの初代製造楽器のモデルはベヒシュタインであった。その特徴は中低音域と高域の滑らかなプロポーションになる倍音、鍵盤楽器としてグランドピアノの生命はその「倍音」にある。コンサートホールで最近、グランドピアノの弱音をフォローして、パブリックアドレスPA音響補正を採用するところがある。困ったことにスタッフは、音響の補強手段として客席に聞かせるように音量補正を加えるのだが、聴こえてくるのはスピーカーからであり、座席のオーディエンスとしては迷惑であることを指摘しなければならない。自然空間において弱音はローソクの灯りのごとく、白熱球で照らすこととは大違い、興ざめである事はなはだしいのである。強音弱音フォルテピアノこの全体こそ味わいたい・・・