千曲万来余話その707「B氏第8交響曲作品93、指揮者は奇人か変人か? それとも、、、」

 放送協会の記憶で「現代の映像」、ある時おふくろは顔を手ぬぐいで拭いながら涙していたことを覚えている。ああ、戦争で独り身になった南洋出身戦争遺児が日本にやってきたドキュメンタリーだった。母は我が子の如く哀しみを覚えていたに違いなく父親を捜す話だったかもしれない。50年余り前の番組は視聴者に訴える力あるテレビ番組だった。そんな伝統をドキュメント番組作りには息づいていて、金曜日の夜中の番組には惹きつけられるものがある。大橋を拠点にしてインタビュウで東京の現代世相を確実に伝えた1月の番組など貴重な放送番組で色々なことを考えさせてくれる。新年おめでとうございます。今年もサイト読者の皆様に音楽情報をお届けすることを念頭にごあいさつします。
 1929年のベルリンにて指揮者達がワンショットに勢ぞろいしたもの、エーリヒ・クライバー39歳ウィルヘルム・フルトヴェングラー43歳オットー・クレンペラー44歳ブルーノ・ワルター53歳アルトゥーロ・トスカニーニ60歳というイタリア大使館で撮影されたもの一葉。クレンペラーはこの後1973年享年88歳まで現役を続け、モノラル録音時代からステレオ録音までレコード残している。
 特に彼のことを変人指揮者という汚名が日本では流布されていたものである。どういうことかというと、ヴァイオリン配置を頑固なまでに第1と第2Vn舞台両袖に展開する形態を崩すことはしなかったまでである。音楽を職業とする人たちは、とにかく主体性、これが彼らのフィロソフィーといえる。人から言われることに対して敏感に反応、決していわれるままの演奏はお断りとする人間性である。なぜ、第1と第2Vnを並べるのかといえば、ユニゾンで演奏するヴァイオリンを両袖展開するより機能性の上で並べる配置を選択する、否、ヴァイオリン両翼配置というワンタームに対する忌避なのである。その「必要性」よりも「機能性」を尊重する指揮者の感覚、演奏者立場尊重の選択といえる。クレンペラーは作曲者の時代の両翼配置が彼らを尊重する配置である感覚を選択していたといえる。多数派はヴァイオリンを第1も第2も並べてしまうという時代の趨勢、加速したのはステレオ録音では左スピーカーから高音域、右スピーカーには低音域という素人にも分かり易い配置こそ主流派のステレオ録音であったという歴史。それが1980年代のウィーン・フィルハーモニー管弦楽団ニューイヤーコンサートでの弦楽器配置は強力なアンチテーゼとなり、現代の趨勢となっている。ズービン・メータは明らかに受け入れて、セイジ・オザワにはなじめない選択、なぜならば彼の師匠は以前の時代を否定して子弟たちに新しい配置を推奨する立場に居たことによる。なんのことはない、第2Vnとチェロの配置でチェロはどこにいるべきか?という問題、第1Vnとチェロは音量の設定で極めて親和性の近い和音の関係にある。主音の上下に対してアルトと第2Vnは調性を決定する極めて重要な機能を持っている。
 ベートーヴェンは作品93において、テンポ設定の問題提起を交響曲で実験している。これが8番交響曲の第2楽章である。メトロノームを意識した作曲で、これは明らかに指揮者に対する問題提起であり、速度記号の数字化という現象である。アレグレットというのは、アレグロの少しだけゆったりした速度記号であるのだが、速度としてどの程度か?メトロノームという器具が指定することになる。テンポ設定が速すぎる時、弦楽アンサンブルは音響的にその薄さがものたりなくなり、ゆったり感が必要な時はその演奏速度を落とすことになる。その指揮者の耳を、クレンペラーは遺憾なく発揮していて、絶妙のテンポを提示しているといえる。奇人変人ではなく職業指揮者の「鏡」というのは、すこしいいすぎなのだろう、、、、、