千曲盤来余話その65「シューベルトの弦楽四重奏曲ロザムンデ」

タリラリ・ラリラリ・ラー、ツァツァツァツァ・ツァー
タリラリは、セカンドVnでツァツァツァツァはアルトとチェロによる合いの手だ。
ミーーードラーというイ短調の主和音をメロディーとして下行するのは第一Vnである。
ドイチュ番号804という彼が25歳頃の名曲ロザムンデ弦楽四重奏曲は開始する。
第二楽章が、劇音楽ロザムンデからの明るい、引用された音楽となっている。
1970年頃録音されたホイトリンク四重奏団の演奏を聴いた。
左スピーカーから、第一と第二のヴァイオリン、右からはチェロとその前にアルトが聞こえてくる。録音では不思議なことにチェロとアルトの位置関係が、理解されるのだ。
音楽は感性に遊ぶ世界であるのだけれど、理性を働かせるのも、また一興である。
これが強すぎると、音楽を味わう人々の世界では嫌われるのでもあるが。
盤友人は、第一Vnの後ろにツァツァツァツァツァーを持ってきて、セカンドVnのタリラリラリラリラーの音楽は、右手側に配置したいのだ。そうすると、感性的認識も極上のものとなること受け合いだ。
これは、作曲者によるデコレイションではないであろうか?
音楽なんて、音が聞こえると成立するわけだから、配置はどうでも良いというのは、議論の回避にしか過ぎない。
作曲者のイメージは、いかばかりか?という推測は、感性による認識でも解答を得ることは可能である。
モーツァルトのト短調交響曲K183など、ジェイムズ・レヴァイン指揮したウィーン・フィルによる30年ほど前のLPレコードを再生すると、左と右の音楽の葛藤が快い緊張感をもたらしてくれることになる。それでは、何故、第一と第二のヴァイオリンを並べた配置が多数派を占めるのか?という疑問がある。
単に演奏上の、難易度の問題にしか過ぎない。圧倒的に並べた方が容易であって、開いた配置は、アンサンブルの精度が難しくなるというプレーヤー側の問題である。
客席には、初演時、作曲者もいたのであるから最上の配置が求められたのであろうが、つまるところ現代に置いては、演奏しやすい配置が、自然と、多数になるというわけだ。
弦楽四重奏などは、演奏の難易度を超えて、極上の配置で聞かせてもらいたいのである。