千曲盤来余話その77「三の裏に、四あるサイコロの目」

チャイコフスキー、最後の第六交響曲パテェティーク悲愴は、悲しい音楽である。
憤怒の爆発有る第一楽章、みやびやかで、そこはかとない五拍子のワルツの、第二楽章。第三楽章は、断固とした行進曲、そのあとに諦観したゆるやかなフィナーレ、彼岸の音楽へと続く。
フランツ・シューベルトの最後のピアノ・ソナタ第21番は、遠雷の響く第一楽章が印象的。春の遠雷・・・彼のまわりには、夕闇が寄せている・・・。
S氏の音楽は、女性への恋心をうち明ける青年の心情というものが、キーポイント。はたして、ロマン主義の音楽は、永遠なる世界へのあこがれが、定旋律を成している。
その彼の音楽は変質を見せて、生と、死への畏怖を表現している音楽こそ、本質というと言い過ぎではある。
1951年6月頃、フィリップス社への録音レコードとして、クララ・ハスキル演奏したところのシューベルトのピアノ・ソナタ第21番がある。ピアノの音味として左手の質感に、遠雷が連想される。ひそやかで、静かな歩みの音楽から切り出される、深い闇の広がる世界、死と乙女という作品名を冠した音楽を想起するまでもなく、ハスキルのピアノの一音、一音の粒立ちには、丹念な手仕事を思い知らされる。
クララには、ディヌ・リパッテイという同郷の男性ピアニストの存在が大きい。
このソナタ録音の半年前に、決定的な悲しい思い出を経験している。
ピアノは、ベヒシュタインの響きを感じさせられる。
彼女の音楽には、明晰な意志の力を宿らせている偉大な芸術の感銘を覚えるのは、盤友人だけであろうか?
ルーマニア出身で、孤高の女流ピアニストのLPレコードを再生できた愉悦こそ、オーディオ・ライフの一つのピーク決定的経験である。