千曲万来余話その305「ジョージ・セル指揮、ハイドン交響曲第94番、びっくり」

朝あしたに道を聞かば、夕ゆうべに死しても、可なり。
論語、里仁篇に見られる孔子の言葉として有名である。とりわけ、儒学思想の中核、武士の教えにして、忠勤の戒めの神髄である。何時いかなる時も、主君に事あらばその生命を賭して構わないという所以だ。
という前提で、学問の世界では多数の解釈が支配されているのだが、盤友人は昭和63年頃、大學研究室指導教官の退官講義で、教授から異説の解釈を初めて知らされたものである。
朝に道を聞かば、夕べに死しては、可ならんや、と読まれた時代の竹簡が発見されたということである。すなわち、その前提として、時代によっては、正反対の解釈、すなわち、朝に道理を究めたならば、夕べに死しては、ならないのだよ、という孔子の教えであるという解釈の時代があったのであるということだ。
これは、単一に、解釈することに対する警鐘である。
多様な解釈の存在、その中から、真実を追究する態度の要請である。
考えてみるに、道理を究めたならば、生き続けることは、必要な態度であって、死しては可ならんという方が、道理としてかなっているであろう事は、明々白々。自然であり、この一事を以って儒教思想への偏見は解消されると云うものである。仁を成すという愛の思想は、救われるのだ。
1967年録音になる、ジョージ・セル指揮、クリーブランド管弦楽団演奏するハイドンの交響曲、驚愕、びっくりは、第二楽章前奏、弱奏の後のトゥッティ全奏、フォルテッシモの一撃でその演奏の価値は決定されると云うものだ。すなわち、このffのために、細心の注意が払われている。
そういったことを考えると、ジョージ・セルの25年間に及ぶ薫陶を受けたオーケストラ、クリーブランド管弦楽団は、理想の楽器であった。そしてさらにその記録としてこの一枚は、価値があるといって過言ではない。
注意深く、スピーカーに耳を傾けていると、左スピーカーで第一と第二ヴァイオリンの掛け合いがあり、中央にオーボエ、ファゴットの管楽器の演奏、右スピーカーからは、旋律線を導く上でのリズム的音楽を推進する低音声部の旋律線が聞こえてくるという仕掛けである。
盤友人にとって、管弦楽曲は、ヴァイオリン両翼配置が前提であるからして、この演奏スタイルは、1960年代主流のものであるという認識。だから、ハイドン交響曲演奏理想の楽器配置ではない。
時代の一つのあり方であって、これからの時代として、指揮をされる方々は、くれぐれも、第一と第二ヴァイオリンを、左右に開いて演奏配置を設定してもらいたいということに過ぎない。
1970年5月大阪万博来日の際、彼は、ピエール・ブーレーズとともに、奈良の長谷寺、室生寺を訪問して技芸天を拝観している。その博学に驚くとともに、その至芸をレコードで味わえることに感謝するばかりである。