千曲万来余話その310「バッハ、管弦楽組曲第四番とモーツァルト、弦楽五重奏曲K516」

札幌の交響楽団一月定期公演で、バッハの管弦楽組曲四曲BWV1066~1069を聴いた。
その印象として、指揮者は原点回帰、バッハの時代の音楽に戻したいという意志を感じた。
小規模編成、そしてそれに合った音響は何か?という方向性。これは、一時代前の大音響音楽に背を向けた様式で、一つのバッハ像として立派な演奏会であった。
その楽器配置としては、今まで通り舞台左手側に第一と、第二ヴァイオリンが八人づつ、そして右手側にアルト六人、チェロ右手側に四人、コントラバス二人、チェンバロ、舞台、弦楽器の手前にオーボエ三人、ファゴット、舞台奥中央にトランペット三人、右手側にティンパニというもので第四番ニ長調BWV1069が演奏されていた。
指揮者にとって、左手側には高音域、右手側に低音域というステレオ観にもとづいている。
これは、基本的に1970年代のものであって、バッハ時代への原点回帰ではないだろう。
ちなみに、オーボエ三本とファゴットによるトリオは、第一と第二オーボエが両袖で掛け合われた方が聞いていて楽しいし、演奏する側としても合奏難度は高いが、演奏効果は抜群であるのは、明らかである。象徴的に言うと、ヴァイオリンの配置は、第一と第二が舞台両袖に広がっているのが原点だ。その一点において、当夜の指揮者は、現代の感覚から脱却し切れていない。
第三番の第二曲アリアにおいても、指揮者の指示だろうがコントラバス一人はピッチカートで旋律を演奏していたのだが、あれはアルコで充分だろう。徹底を欠いていて中途半端な解釈によるものだ。
楽団員の演奏は立派、但し、楽器配置は、再考が必要ということである。原点回帰としてはヴァイオリン両翼配置まで必要になってくるというのが、盤友人の感想だった。残念な思いでキタラホールを後にした。
モーツァルトの弦楽五重奏ト短調K516を気になって、というのは、楽器配置のこと。
モーツァルトはどのようなものを意図して作曲したのか?
一般的常識として、作曲者は言葉で指示していないのだから、どんな配置でも構わないといって、第一と第二ヴァイオリン、チェロ、第二と第一アルトを並べるなどというものがある。他には、第一と第二ヴァイオリン、アルト二人、舞台右手側にチェロなどというLP録音が多数である。
第三楽章メヌエット舞曲三拍子の音楽を聴いて、疑問は氷解した。
第一と第二ヴァイオリンのメロディー旋律は掛け合いで演奏されている。だから第一と第二ヴァイオリンは開いた配置の両翼配置が効果的な音楽なのである。だから舞台左手側第一ヴァイオリンとアルト、チェロ、第二アルトと第二ヴァイオリン右手側にという並び方が、ベスト最良だろうということだ。
現代の混沌とした世界情勢も、音楽はその影響から無関係ではあり得ないはずだ。そして、その問題解決の鍵キーワードとして、多様性というものがある。一つだけの解釈からの脱却、歴史を正しく振り返る必要がある。盤友人がいいたいのは、第一と第二ヴァイオリンをたたんだ現代の配置に対する警鐘でありそして無意識裏の二重構造を破壊した、単層化に対する疑問である。現在の音楽界も、冷静な判断そして、前提としている問題点を解決することこそ必要になっていると云える。
レコードを聴いていて、つくづく、世の中が見えてきて、実に楽しいのである。