千曲万来余話その397「オーディオ的フルトヴェングラー1930年代指揮芸術論」

ヴィンテージのスピーカーを鳴らしていて、メーカーの国によって違いがあるということに気が付いて、にわかに、オーディオの奥深さに対して真剣にならざるを得ない。すなわち、ジャズを愉しむ時、米国製のアルテック社製品などは無敵である。一切の無駄な響きが無く、楽器の生々しさが表現されているし、なにより、ヴォーカルの生々しい肉声感は、他のどの国よりも抜きんでていることは、比較参照すると明らかであろう。
  ところが、ピアノやヴァイオリンという楽器の持っている倍音再生において、その光に付きまとう影のような感覚に気が付いたとき、英国製というブリティッシュサウンドの魅力は、作家五味康祐が語りつくしているところである。タンノイ社が甘口だとすると、ラウザー、ローサー社製はさらに辛口である。
 オーディオの世界は、さらに広がりを持つ。ドイツ製品は、さらに高品位であって、管弦楽の光彩陸離たる音色とともに、チェロやコントラバスの醸し出すサウンドは、10年以上20年くらいかかって出会うオーディオ的醍醐味である。盤友人は、不思議なことに最近になってようやく日本フルトヴェングラー協会頒布レコードに出会うことになった。
  いわゆる、SP復刻モノーラル録音である。多分、初心者の場合、盛大なサーフェイスノイズ、雑音にまどわされて再生に手がかかる代物である。シグナル、ノイズというSN比でいうと、信号音を確実に再生するその世界は、演奏録音しているオーケストラ自体が、当時の最高峰であるがゆえに、超弩級のレコード再生芸術となる。かの日本フルトヴェングラー協会の会長さんは、F氏と親交あった近衛秀麿、当時のベルリンフィルを指揮した歴史的な指揮者である。
 わけても、1930年録音によるブラームス作曲、ハンガリー舞曲第一番、第十番を再生すると、フルトヴェングラー指揮芸術のマジックの虜となること、必至である。それは、コントラバス8挺のオーケストラの迫力、そのサウンドの音圧に圧倒されるところとなる。これは、モノーラル時代のカラヤン、カール・ベーム以前の世界であり、ステレオ録音時代のものとは比較できない空前絶後の芸術なのである。
 なぜなのか?
 それは、演奏風景の写真を見て、すぐ理解できること、チェロやコントラバスの舞台下手配置、第1ヴァイオリンの音響的に云って間近の配置だからである。すなわち、二十世紀後半主流の配置によるものは、第1ヴァイオリンとコントラバスの間に、第二ヴァイオリン、アルト、チェロを挟んだ音響では、演奏不可能な音楽なのである。それは、アゴーギグといって、緩急法、急がせたり緩めたりすることの表現する幅の広い演奏になるのである。
 管弦楽ではない場合ヴァイオリンソナタなどでは、楽器の胴鳴りといって楽器の弦のみならず、自体の音響の再生に強いのがSP復刻録音である。
 フルトヴェングラーの場合、1945年以後、第一と第二ヴァイオリンを束ねた楽器配置が世界の主流、スタンダードとなっていったのである。だから、彼の1930年録音を再生すると、オーケストラ楽員たちの緊張感を高める手綱の掛け具合が、一聴瞭然、緩め方などが、面白いのである。ブラームスの舞曲になると、それがその演奏された時代のメランコリーとあいまって伝わり、オーディオの道を人生とする喜び、ここに極まれり!といった次第である。
 良い音とは何か ? それは単なる音響現象のことを超えて、時代の空気を再生し表現することまでたどり着くことになるのである。それでこそ音楽の醍醐味、生きる喜び、価値ある芸術との出会いと云えるのだろう。