千曲万来余話その398「反多数派の条件、オーディオ再生の悦び、指揮者クレンペラー」

人は誤りを犯す存在、ゆえに一度の科をば、いかにクリアすることかこそ大事なことの一つであろう。
 だから、いかに謝罪することかが、本当に考えなければならないということだろう。何のことは無い、盤友人も、このサイトで発信する情報すべてが正確か?誤発信なのか?サイト観察者の皆様にご迷惑をおかけすることも多分、多いことなのだろう。だからと言って、このサイトの価値が下がるわけでもあるまい、重要な情報発信なのだろうと考えている。
 4年前この千曲万来余話その3で、オットー・クレンペラー指揮するベートーヴェン交響曲全集、ウィーン・ライヴ録音について取り上げたことがある。モノーラル録音であり、デニス・ロスのフィルハーモニア・オーケストラということで、残念至極、といった発信であった。2018年新春に至り、ここでキングインターナショナルに、お詫びしなければならないと思う。すなわち、モノーラル録音であっても、なんの遜色もない音楽なのだ、ということである。というか、素晴らしい音源に感謝しても、し過ぎではないということだ。オーディオ再生の人生で、モノーラル録音の環境が真価を発揮する段階へステップアップしたのである。アンプリファイアは、PX4という三極出力管仕様、アームはRM297、モノーラルカートリジは、針圧8グラム黒ツノを使用、そしてインシュレータ装着されたEMT927という次元は、新たな世界との出会いに至ったのだ。
 1960年5月6月、ウィーン芸術週間ライヴ録音を再生して、その感覚の違いに圧倒された。クレンペラー指揮するベートーヴェンの交響曲は、ヴァイオリン両翼配置の採用で、コントラバスの旋律線メロディーラインは、バランスの面から言って、ヴァイオリンの演奏に対して、距離的にも近接であって、その一体感は多数派の録音よりも、説得力が異なるというもの、聴衆の反応は実に温かいものを聞き取ることも可能なのである。演奏内容が、異なるということでなく、受け止める感想が異なるということなのだ。すなわち、第一ヴァイオリンとコントラバスの間に、第二ヴァイオリン、アルト、チェロといった内声部をサンドイッチする多数派演奏と、第一ヴァイオリンと、コントラバス、チェロというハーモニー和音の外側、外声部を近接配置する音楽とでは、演奏内容、音量、テンポなど受ける印象に違いが発生するというもの、男性的演奏か、女性的演奏か、という違いである。なにも、女性的という言い方で卑下する目的ではあらず、男性的という側面は説得力があるとの違いを指摘したいだけである。
 B氏作曲した交響曲第二番がニ長調作品36ということ、これだけでは何の意味もないことなのだが、第一楽章の小節数が、楽譜ポケットスコアを手にすると、360小節であることが分かる。大体、多数派の常識で云うと、作曲行為と、小節数の関係に、作曲者の意志を指摘することは無茶なこと、そうなのではあるけれど、彼の人間性を考慮した場合、その音楽の特色から云えることは、さもありなんということである。すなわち360という数字は、三百六十度全方位という数値と一致するのは、偶然なのか?B氏の意志といえるのか?という問題提起をすることは可能なことである。
 作曲者の意志は、360小節の音楽作曲という結果なのであり、その意志力を指摘することは、盤友人の発信によるというアダプトなのであろう。オットー・クレンベラーの意志がどこにあるのかは、想像の範囲を超えることは無いのであるが、彼の意志は、弦楽器配置は頑として揺るがず、Vn両翼配置採用ということから、LPレコードを再生するすると、作曲者の信念にまで思いは広がるというのが正確な言い方だと云える。
 キングさん、ありがとう!