千曲万来余話その450~「ピエール・モントゥーの残した遺産、ウィーン・フィルとの幻想」

 北海道震災から一週間が過ぎて亡くられた方は41名を数え、まことに痛ましい惨事となってしまった。
 未明3:08、M6.7の大地震、そのメカニズムを想うに、核であるマグマを包む固体の中層部マントル、それを包む地殻、卵で云うと殻に当たる部分でプレートのヅレによるヒズミの連動が考えられる。その日は月の出が00:53、月齢は26.1で下弦から三日目にあたる。東側に向くと月、地球そして太陽が列をなしていて、地球自体にひねりの圧力が加えられた状態になっていたのだろう。2011、3.11の東日本大震災の日は、月齢6.3で大潮に当たっていた。新月から二日目ということは、太陽、月そして地球という一列で、ひねりが加えられ始める状態であったように考えられる。太陽、地球、月が一列の時は満月でテンションは極限、比較的安定しているのだけれど、新月から上弦に向かうときとか、下弦から新月に向かうときなど、地球に対してひねりが加わっているというテンションに注意したい。いずれにしても、犠牲になられた方々、被災された方々にはお悔やみ、お見舞い申し上げます。
 地震後、昨日に初めてオーディオに電気を流してみた、盤友人はワルプルギスの夜の夢が聴きたくなったのだ。ベルリオーズの幻想交響曲。標題音楽の典型で、ロマン派ならては、作曲者の世界はおどろおどろしい闇夜を体験させてくれる。特に、1959年頃録音になるRCA盤、ピエール・モントゥー指揮、ウィーン・フィル演奏するものを再生する時、弔いの鐘には衝撃をあたえられる。映画評論などでは、ネタばらしと言って嫌われるのだけれども、今から六十年近く前の録音盤で未聴の方もおられようけれども、それはそれとして、始めの一撃は普通でも、三打目の音は、音程間隔が下の方に広い音になっている。つまり、深く感じられて、一瞬虚を衝かれることになる。不気味な感覚といえばそれまでなのだが、そういわれていても、聞いてみるとよく味わうことになる。一瞬、深みにはまるのである。
 夢と情熱、一人の青年は、美しい彼女の姿に胸を奪われる。舞踏会で、再会。野の風景では孤独、そして遠雷、彼は断頭台への行進を体験し、ギロチン斬首の上にそれは転げ落ちて、あたりは魑魅魍魎の跋扈するワルプルギスの夜の夢、という具合に50分ほどの交響曲である。
 音楽をプログラムで語るとは、文学でもあるまいに、音楽は、管弦楽のそれ自体こそ鑑賞すべきであって、言葉の格下のにあたる芸術ではありえない。言葉はイメージのツール手段であり、それに囚われることは芸術の鑑賞としていかがなものか?ということは充分承知の介、レコードを再生する。  モントゥーの弦楽器配置によると、左スピーカーでは、第一Vnとアルト、右スピーカーではチェロ、コントラバスそして第二Vnが展開する。全体として、第一と第二ヴァイオリンの掛け合いは、一聴に値する。先日、NHK-Eテレでオンエアされた、サイモン・ラトル指揮ベルリン・フィル、フェアウエルコンサート、マーラーの悲劇的交響曲の弦楽器配置もそのようであった。ラトルはこの後ロンドン交響楽団の音楽監督就任が決まっているという。1960年代前半LSOのシェフはピエール・モントゥー、単なる偶然なのであろうか?ラトルが、音楽監督を司っていたBPOを後にするにあたり下した結論はモントゥーの楽器配置と一致したのであったという事実、盤友人にとってきわめて興味深い。
 アンセルメ指揮芸術において、第一と第二Vnは左スピーカーに束ねられていて、周知のごとく、二十世紀後半の多数派。それに対してモントゥーは第二Vnを右側に配置した展開。鑑賞する方としては、一体、どちらが興味あるのだろうか?お尋ねしたいものである。