千曲万来余話その451~「J・ティボー、三種類のマスネー瞑想曲をSP復刻LPレコード盤で聴き比べ」

 二十数年来、人様から頂いたコーヒーカップを口にしていて、その縁(ふち)の感触というか、口当たり素晴らしいのが一瞬間、感じられたことがあって、ああ、いい感覚だなあと思ったことがある。滅多にない経験で、すなわち、当たり前であったことを異なった感触に気づくという経験で、深く、心動かされてしまった。これは、オーディオの世界ではよくあることで、当たり前とスルーしていたことに対して、違った感覚に気づくことは、貴重である。
 いい音とは何か、などという疑問は、答えは一通りではあらず、装置にスイッチを入れるときはいつも、わくわくしてしまう命題であろう。今まで、何、この音という感覚で聴き過ごしていたレコードも、たとえば、札幌音蔵のアクセサリー、スタビライザーという木製品のスペーサーを上手に利用してグレードアップを図ったおかげで、以前聴いていた感覚と、特別な再生音に変化していて、驚いたことが最近の歓びである。
 ジャック・ティボーのSP盤で、1905、1916、1917年フランス録音されたものを聴きなおし、その違いを鮮明にして歓びは一入であった。ティボー1880.9/27ボルドー~1953.9/1バルスロネット近郊(飛行機墜落事故による)は、日本人にとってSPレコードで広く愛好され、実際の演奏会でも接した稀な名演奏家の一人。歴史上伝説のヴァイオリニストであり、我々にとってはSP復刻レコードで記録再生できる存在、それを、上手に再生することは、オーディオの醍醐味である。
 オーディオ業界の宣伝文句で、眉唾物のコピーは数々あるのだけれど、音は最近のものほど目も覚めるような音と言うものがある。それは、真っ赤なウソ。ティボーのSP復刻盤、一番魅力ある録音は1905年のものこそ極上音楽である。少し再生して分かることは、ヴィヴラートとポルタメントの掛け具合、基本的にヴィヴラートは抑制気味のうえで、1916年と1917年録音盤にないものは、ポルタメント奏法である。旋律がキイの高い方を目指していて途中、下降音がある時ポルタメントがかけられる。いつもかけられるのではないのだが、これは、一時代まえの演奏スタイルで、二十四・五歳のときには記録されたもが、十年の後では、演奏されないスタイルで記録的に貴重な経験である。
 いい音とは何か?答えるのに一通りではあらず、様々な答えがあるのだが、盤友人としては、ここで、SP復刻録音LPレコードで楽器の音圧状態をと指摘したい。1905年物は、極めて、明瞭に楽器の鳴りが鮮明な情報で再生される。もう一言いうと、ヴァイオリンが高音域の時、表面の板が振動していて、低音域は裏板が豊かに共鳴している。これは、よくある経験ではないというか、そんな再生に出会う経験は稀である。ティボーの演奏は、すでに、最初の録音で成し遂げていた演奏である。なぜ、ポルタメントは封印されたのであろうか?思うに、時代の問題なのであろう。多数の演奏家がそのように、演奏するからそのようなスタイルへと移行したものなのだろう。趣味の問題で、再生する側として、アナログから、デジタルへの移行に似ている。良しあしではなくて、そのような傾向へと推移してったのであろう。現代のバイオリニストが、もし、復活させたら?とありえないことを盤友人は想像している。すなわち、レコードの世界にしか求められないことである。
 ジャケット写真、よく見ると、楽器ケースの内側には、弓が四、五本目にする。これは、何を意味することであろうか。多分、これまで発信した疑問に対する答えが、情報として混ざっているに違いないだろう。いずれにしろ、SP録音から再生すべき情報は無限なのである。