千曲万来余話その461~「日本のメロディー、A・ナヴァラの名演奏を聴く」

 1970年11月、パリで録音されたチェロによる日本抒情歌集。宵待草(多 忠亮)を耳にすると憂いを帯びた旋律が、胸をうつ。
 ピアノ伴奏はアニー・ダルコ。その音色からして低音に特徴があり太い音の録音である。クレジットは無いので不詳だがベーゼンドルファーの感覚がある。テンポの設定が巧みで、違和感は少しもない。そのところは名人芸といってよいだろう。カリオペのワンポイントマイク録音とある。右チャンネルにしっかり定位している。
 ステレオ録音というと左右のチャンネルが強調されるが、忘れてならないのは中央の感覚であろう。チェロの深い音色が設定されている。
 アンドレ・ナヴァラ、1911.10/13仏のピアリッツ生まれ~1988.7/31伊のシエナで死去している。1931年パリでソリストとしてデビュー。カザルスにも師事していて、62年には初来日を果たしている。49年から79年までパリ音楽院教授を務めている。エルガー、サンサーンス、ラロなどの協奏曲やバッハ無伴奏チェロ組曲集カリオペ盤などが代表的録音。
 彼の演奏を耳する時、その音色の多彩な変化に惹きつけられる。一番目の旋律が明るければ、二番目には単調さを避けて変化を加え、違う音色を選択していて、流石である。その巧みな演奏は全編に溢れている。浜辺の歌、出船、この道、さくらさくら、赤とんぼ、荒城の月が第一面。 
 音楽は慣れ親しむという側面があり、荒城の月ではいかにもオリジナルの感じがする。ところが、これは山田耕筰の編曲によるもので、移動ド唱法で、ミミラシドシラ、ファファミレミのところ、滝廉太郎はレの音に半音高い変化記号を付けている。山田はそこに手を加えて、音程が全音の感覚に直している。この旋律こそ日本人の耳に慣れ親しんだものなのだけれど、作曲者のオリジナルではない。作曲者の故郷、大分ではしっかり半音高いレの感覚で歌われ続けているという。それは、微妙な問題であり、多数の演奏がそのように演奏すると耳に慣れることなのだろう。ちなみに、ソプラノの鮫島有美子、デンオンLP録音では、作曲者のオリジナルで歌唱している。わずか一つの音でも、その違いは大きいものがある。
 故郷というと、ふるさと、唱歌の代表曲であるけれど、今や、その歌を大きな声で歌えなくなってしまったといえる。水は清きふるさと、そのように歌えない人々がいるのである。音楽に何の罪もないのだけれど、時代3・11以後ではそういう問題を抱えたものと云えるからだ。微妙なこと、この上ない。チェロ独奏に歌詞は無いのだけれど、それを思わせるのは悲しいことである。日本の原風景でも、時代を経て背負った問題には根深いものがある。
 第二面、城ケ島の雨、故郷、浜千鳥、夏の思い出、叱られて、砂山、夏は来ぬ、どれも親しみのある音楽で、それにふさわしい演奏である。名演奏家というのは、楽譜から読み取る世界に国境はない。フランス人であろうが、日本人以上に日本的な風情たっぷりのものなのである。城ケ島の雨など、情を交わした男女の別れを描いた名曲であるのだが、始めの旋律で、息を吸うように声を出して歌いなさいと言われたことある盤友人にとって、ナヴァラの演奏は、見事である。巧みな演奏でそこのところ表現に成功している。 
 音楽は感情の表現ではなく、演奏を受け取る鑑賞者の催す感覚なのだけれど、それが見事というのは、名人芸のなせる業であろう。テンポと音色、音程、強弱感、リズム感、すべてがまとめられて演奏できるのはナヴァラがはるかな高みに有る孤高のチェリストであることに他ならない。チェロの深い音楽を愉しめるのは、LPレコードの所以である。