千曲万来余話その471~「モーツァルト、VnソナタK376へ長調、バリリ、B=スコダ」

 季節が来れば咲くと言う 花の言葉にウソはなし春風亭柳昇、彼は高座でトロンボーンを吹いた噺家さんで、実は軍隊経験からという。抜き差し曲金自在管というのを彼から聞いた。二刀流、彼ならではの芸だった。花について語り人生、散々聞かされるウソを実感していた人ならではのことばである。
 六日朝十時ころ、太陽と地球の間、月が一列になった。引き出しに有ったネガフィルムを重ねて眺め、宇宙の中の月を実感した。雪の季節に明るく晴れたひとときだった。
 1954年夏録音で、ウエストミンスター盤、ピアノとVnのためのソナタを聴いた。Vnワルター・バリリ、Pfパウル・バドゥラ=スコダというコンビで黄金のモーツァルト演奏。モノーラル録音はモノーラル・カートリッジで再生して最善だ。先日のTV放送第九演奏で、指揮者のテンポ設定を批判した。多分、彼はメトロノーム指示を順守したことなのだろう。それならば、当時のオーケストラ編成ではなく、楽器、人数とも近代オーケストラで演奏しているのだから、ミスマッチと言うまでである。ベートーヴェン演奏も、前提条件を整えなければ、統一感を採ることができない。だからテンポ設定は、一筋縄で解決できないのである、片手落ちということだ。
 モーツァルトの演奏も、クラフィーアという鍵盤楽器を作曲者当時の時代楽器を使用しなければならないのか?その必要もないだろう。スコダの使用するベーゼンドルファーというのは、ウィーン製のメーカー。低音域の倍音は、香るように充分であり、デモーニッシュ悪魔的ですらある。
 バリリの演奏で、ヴァイオリンのヴィヴートをかける技術の巧みさ、彼の人間性を伝えることは充分すぎるほどであり、オーケストラのコンサートマスター1963年ころからリタイヤした経歴はいかにも残念である。清潔な演奏スタイルは抜群であり、享楽性を排した愉悦感は、孤高の芸術を披露していて、愛すべき演奏家ではある。ベートーヴェンの弦楽四重奏曲など天下一品である。モノーラル録音は、当時の時代を記録していて、だからでもないのだけれど、貴重なのである。月刊雑誌、録音評でいつもステレオ録音より一律20点減点なのは、そのような刷り込みを読者に与えている愚を、肝に銘じなければならないだろう。ステレオ録音は、その半減した音に過ぎない。だから、カートリッジをモノーラル専用に取り換えた時、喜びは倍増するのである。
 新月のとき、万有引力の関係から、地球上のテンションは一番薄いという感覚、みなさん、経験されてはいないのだろうか?気のせい気のせいといわれるのだろうが、モノーラル録音を、満月夜のときから思い起こすと、半減している。気の問題だから仕方ないのだけれども、この感覚を、読者のみなさんの中にも実感されていたらば、幸いである。
 ピアノのメーカーにしても、クレジットがジャケットに表記されているのではあらず、ただし、録音場所がモーツァルテウム・ザールとあるだけ、そこから推測するに、ベーゼンドルファーというメーカーが思い至るし、何より、LPレコード再生して出てくる音は最高のコンディションである。バドゥラ=スコダが札幌コンサートホールの小ホールでヴァルトシュタインを演奏したとき、盤友人は至福のひとときであった。バリリ、スコダの御両人、今なおご健在であるのは、慶賀に堪えない。レコードの録音は、記録に過ぎないのであるけれども、時々鑑賞するのでも、印象はそれぞれ異なる。ただし、弦の音がガット弦とかいう事実は、不変である。現実はいつも変化していて、その当時の音楽を再生できる価値は、おどろきであるしいい音とは、それを実感させるところにある・・・