千曲万来余話その472~「ベートーヴェン第二交響曲クレンペラー指揮、ステレオの境地とは・・・」

 360度というと全方位を指し示すのだが、作品36で第二交響曲ニ長調の第一楽章小節数と言うと、なにやら意味深いものがある。だいたい普通の人は、楽譜を開く機会はもたないものだが、小節数を数えてみたら意外な事実に突き当たるというものである。
 常識として、音楽の作曲をする時、数など数えるなんていうことを、作曲家はするのか?という疑問を持たれないのかなあ、ベートーヴェンはどうだったの?ということになる。そこで冒頭の数字が腑に落ちるというものである。B氏の人間性に興味のある人には、がってん!承知の助・・・彼がコーヒーを飲むとき、豆の数を数えていたという話がある。濃度を考えるとさもありなん、60粒だったようなのだが、真偽のところは不明、作曲家芥川也寸志さん(龍之介の三男)は25粒と言っていた気がする。五本の指に五粒ずつということなのだが、某喫茶店の店主に言わせると、60粒説の方を採る。だがしかしB氏の飲むカップは何CCくらいの容量だったのか?という問題がある。もし仮に100CCくらいだったら、25粒説は立派に成立するだろうし、盤友人としてもそちらの方を有力とみる。いちいち60粒数えていただろうか?25粒のほうが数え易いだろう。
 余談はさておき、作曲者の人間性を前提として、作曲する時、小節数を数えていたとすると、彼の交響曲を聴く、何の手掛かりにもならないのはそうなのだが、親しみは、倍増するというものである。
 音蔵社長氏は、音楽を聴くとき右だの左だのそんなことはどうだっていいこと!とおおせられる。その店長TY氏にいたっては、音楽会場ではモノーラル状態で聴いている!という。御両人ともに、鑑賞するのは、モノーラル派であるということだ。盤友人はそのように考えない。作曲家は、舞台の左右から聞こえる音楽を、配置の上から前提としてそのように聞こえるべく、管弦楽法で表現しているとみる。
 ステレオ録音が登場した時点で、録音技師たちは、左側に第一ヴァイオリンを想定して、右側にはコントラバスを想定する前提で音を決めていた。だから、ジャズなどでも、右スピーカーからベースがボンボン聞こえることでステレオを愉しんでいたのである。
 舞台で指揮者の左手側を下手シモテと言い、右手側は上手カミテである。だから、カミテに低音域の楽器が聞こえることは不自然と言うもの。土台は左手側シモテに聞こえて正解といえるだろう。管弦楽で20世紀後半の主流派は上手コントラバス配置であった。ところが、1945年以前のフルトヴェングラー指揮するベルリン・フィルの写真を見ると愕然、コントラバスは下手側配置なのである。
 オットー・クレンペラー指揮する第二交響曲の第二楽章などを鑑賞すると、これ以上の要求があるのだろうか?とおもわれるほど、完璧なステレオ録音になっている。すなわち、右スピーカーからアルトと第二ヴァイオリンが整然と後打ちといえる伴奏系の音楽を演奏しているのを再生すると、今までの指揮者たちは何を考えていたのだろうと思われる。何も考えないで無防備に第一と第二ヴァイオリンを並べて演奏するスタイルは、21世紀に入り否定されつつある。すなわち、古いは新しい新しいは古い、ということである。第一ヴァイオリンの音響とコントラバスのそれが溶け合った響きは今、オーケストラに求められている音楽なのであろう。頑固なまでに第一と第二ヴァイオリンを並べるスタイルは、既に古い音楽と云えるだろう。クレンペラーは頑固者の代名詞であったのを、そっくり、現代の古くなった指揮者たちに熨斗を付けて献上して差し上げるのはいかがであろうか?クレンペラー氏は黄金の記録、ヴィニールに刻んだ!