千曲万来余話その546~「シューベルト楽興の時、K・エンゲルは余韻と倍音と・・・」

 迷いながら見つけた道は教えられた道より確かである。80年くらい前、戦争突入する時代に銃後の国民は竹やりを用意しての国威発揚だった。国家総動員体制で同調圧力の極みだから、ぜいたくというものは素敵だったんだ・・・ウィルスは130ナノメートル(ナノは10億分の1m)、0.1マイクロメートルで電子顕微鏡という世界が細菌とは異なるのを忘るべからずというまでだ。布マスクなどの5~500ミクロンという隙間は、N95やサージカルマスクなど防護マスクと比較にならないこと、客観的事実はすでに情報発信していたところである。
 オーディオでいい音とは、いい音楽と微妙に異なる。つまり不即不離の世界は、平行パラレルな関係で、働けど働けど我が暮らし楽にならざりきぢっと手を見るとは石川啄木のことばで、この時、見るのは手の甲か手のひら? か、彼は手相でぢっと見入ったことは想像するに難くない。これは理解、ではなく気づきの世界のことなのだ。
 フランツ・ペーター・シューベルト1797~1828ウィーンの青年作曲家は、ベートーヴェンの世界から誕生してロマン派の扉を開いている。「楽興の時」全6曲作品94ドイチュ番号780は1823~28年に作曲、楽譜出版されている。第3曲アレグロ・モデラート中庸で快速にはロシアの唄として、もっとも有名、ラッタラッタ、ラッタラッタという平易なリズムで開始される音楽は日曜日の朝に、「音楽の泉」でつい先日、担当していた水戸出身の皆川達夫先生は長寿を全うされた。盤友人にとって堀内敬三、村田武雄氏担当が中学生の頃のラジオ放送でクラシックを耳にしたもの。まだFM放送が無い中波放送の時代だった。
 第2曲アンダンティーノ変イ長調は、より深遠な世界でアンダンテよりは速めのテンポ。旋律線メロディーラインは、一層なだらかに連なり、明らかにベートーヴェン・ロスの心象風景を感じさせる。
 グランドピアノはリスト、シューマン、ショパン達で同時代となり、シューベルトの音楽はフォルテピアノという前G・Pの世界ながら、すでにロマン派の境地を表現しているといえる。グランドピアノはイギリス式、突き上げ式の発音構造キーアクションと、ウィーン・ドイツ式という跳ね上げ式のアクションと大きく二通りのタイプに分けられる。スタインウエイは華やかで大きな音量を誇り前者で、ベーゼンドルファーは、ウィーン式である。低音域の雄大な倍音成分は、男性的な打鍵を必要としてたとえば、アンヌ・ケフェレック女史はエラート録音で両者、シューベルトをベーゼンで、ラヴェルをスタインウエイでと使い分けている。パウル・バドゥラスコダはベーゼン1本で、イエルク・デムスとかフリードリヒ・グルダは2刀流タイプだというのは興味深い。
 カール・エンゲル1923.6/1スイス・バーゼル近郊出身~2006.9/2モントルー没は、ベーゼンドルファー・ピアニストだ。アウスレーゼ選り抜きレーベルでシューベルトの即興曲作品90と楽興の時作品94をカップリング。彼はベルン音楽院でパウル・バウムガルトナーに師事、パリ・エコールノルマルでアルフレッド・コルトーに学んでいる。フィッシャー=ディースカウ、ヘルマン・プライなど歌手による歌曲伴奏の録音など多数ある。
 余韻というのは、読んで字のごとく楽器の音が空間に残る音で、似ている響きが倍音である。その違いは何かというと、倍音は、演奏している最中に響いているもので、オーディオの機器が深化するにしたがって微妙に成分のバランスが大きくなっていく。グランドピアノがワーンと鳴り響いている状態と、電子ピアノが鳴り続ける和音と、その実態には相違がある。その違いが倍音である。カール・エンゲルを再生するにその演奏する旋律線の倍音の連なりこそ、シューベルトの求めた生命であろう・・・