千曲万来余話その560~「ヒンデミット、ホルン協奏曲、8/21訃報に接して・・・」

  NHK-Eテレ20:55のニュースで劇作家山崎正和の死去報道に接した。86才。今から、23~4年ほど前に盤友人は札幌教育文化会館にてパネルディスカッションの聴衆として参観、そのあと交流会で色紙にサイン頂いたことがある。戦後に岸田戯曲賞受賞作世阿彌で脚光を浴びた。昭和40年ころ評論集劇的なる精神を皮切りに論壇で活躍、昭和平成と時代をリードする存在だった。政界とも関連していたし日本の最高権威とも深く関わり2018年文化勲章し、企業メセナの活動も指導的地位にて社会貢献を果たす存在だった。彼から頂いた名刺は貴重な形見となった。
 「水の戯れ」を満州、蓄音機で聴いた少年時代や京都大学では喫茶店で「フランクのVnソナタ」を繰り返し聴いたとか、哲学科美学の修了でイェール大学留学、翌年には客員教授、日本演劇界の一旗手でもあり晩年には中央教育審議会会長歴任、他にサントリー財団顧問など八面六臂の活躍をする愛煙家であった。兵庫西宮にて逝去、8/19の早朝に息を引き取られたとのこと。ご冥福を祈念します。
 9/1は鎮魂の日である。早朝、天才的音楽家デニス・ブレインは過労によりロンドン郊外でカー・クラッシュ、自動車事故を引き起こしてしまった。36才。その七年前に独バーデンバーデンで彼は献呈された協奏曲を披露している。作曲されたのは1949年だから、戦後4年目のことでなおかつ、ドイツ人作曲家パウル・ヒンデミット1895~1963は1940年米国に亡命していた。デニスは17才でブッシュ合奏団、父オーブリーとバッハのブランデンブルグ協奏曲第1番を共演している。兵役を経験して、後にフィルハーモニアオーケストラ・オブ・ロンドン、ロイヤル・フィルハーモニックなど草創期に活動していた。ヒンデミットは1948.10/10にデニス独奏でモーツァルトのホルン協奏曲を指揮していて、その圧倒的な音楽性に感激してホルン協奏曲作曲に取り組んだ。作曲家ヒンデミットは、ナチスとの対立、R・シュトラウスからは「音階ばかりで音楽が無い」とけなされていたものだ。盤友人にとって、指揮者ヒンデミットは1956.4月第1回ウィーン・フィル来日公演指揮者として記憶している。耳が良く音程ピッチのコントロールは正確無比といわれた。指揮者ヨゼフ・カイルベルトは1968.5月バンベルク交響楽団来日公演で画家マチスを演奏していたから作曲者死後5年しか経っていなかったことになる。この曲の初演は1934年3月フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルによるものだった。ホルン協奏曲は1956.11/19一日で作曲者指揮、フィルハーモニア管弦楽団独奏者はデニス・ブレインにより録音された。この直後11/24に指揮者グィド・カンテルリ36才はパリ・オルリー空港で飛行機事故という悲劇に見舞われることになった。
 曲は「中庸で、速く」「急速で」「とても遅く、中庸で、遅く叙唱風で快活に、とても遅く」という三楽章形式。「ある偉大なホルン奏者から、もう一人の偉大なホルン奏者へ」これはデニスが大切にしていた写真への書き込み「この作品の空前無比の初演者へ、感謝に満ちた作曲者より」と書かれたスコアを初演終了後に進呈されている。演奏自体、高い演奏技術をもとめられ、その上に熱狂とは対極的な音程コントロールそして、音楽形式観、歴史に刻印するという気高い精神性を実現する。
 オーディオで求められるものは、音響のみならず演奏家の音楽性、時間を体験する取り組み、感覚における刺激のみならず、時間経過に耐えられるだけの音楽情報、そして鑑賞者のニーズ必要性であろう。刺激というピンポイント的な発想の上に、オーディオ装置のアナログ指向という方向性なしに、ありえない。原点指向という態度こそマニアに求められる前提条件、決して後ろ向きではあらず未来志向なのだ・・・・・