千曲万来余話その559~「ドビュッスィ交響詩海、サージョン一期一会パリ管弦楽団との一枚・・・」

 ジョーン・バルビローリ1899.12/2ロンドン出身1970.7/29同地没は、49年にサーの称号を授与されている。祖父、父方共にイタリア人でヴァイオリン奏者、母はフランス人であり英国の血は流れていないようである。1911年にはアクースティク録音でチェロを演奏している。16歳で王立音楽院の所属楽団員の経歴を持つ。クイーンズ・ホール管弦楽団チェリスト。1918年から兵役、同志の管弦楽団で指揮者として活動、27年頃から指揮するレコーディングが残されている。1937年から43年までニューヨーク・フィルハーモニックの常任指揮者、当時はアルトゥーロ・トスカニーニ、ドミトリー・ミトロプーロスというビッグネイムが大黒柱の中にあってその音楽性は鍛えられたことが推測される。
 その後英国の、ハルレ管弦楽団の音楽監督として活動、ベルリン・フィル、ウィーン・フィル、ニューフィルハーモニアそしてパリ管弦楽団との経歴を記録している。どのような古豪のオーケストラともがっぷり四つ、バルビローリ節は明快である。中でも1968.12/12.13録音によるパリ管弦楽団とのドビュッスィ作曲三つの交響的素描「海」と、夜想曲は名盤として誉れ高い、不滅の音楽となっている。パリ管弦楽団は母体がパリ音楽院管弦楽団で、1967年シャルル・ミュンシュの下で出発、それもつかの間、68年11月米国演奏旅行で客死している。そんな緊張感の中あたかも献呈されたかのごとき名演奏が記録されることになった。
 名門のオーケストラは押しなべて管楽アンサンブルが盤石、安定感のあるホルン、木管楽器の中でもファゴット、バッソンは演奏会で体験すると、オーケストラ全体の元締めとして印象は強い。どういうことかというと、木管の和音ハーモニーの土台が音響の上でバッソンが支配していて、聴いていると安定感を覚える。特に英国、フランス系でホルンは指揮者の左手側、下手配置というのは、コントラバスとの兼ね合いが考えられる。ウィーン、ドイツ系は指揮者右手側上手配置が主流である。楽器の構造、マーラーの交響曲第5番のフィナーレ、ホルン独奏の旋律など夜明け、日の出を感じさせて、指揮者が北に向かって東、右手側から吹奏されるのが作曲者のイメージだろう。コントラバス下手配置が前提なら解決される問題である。最近の演奏会で見られる下手配置は疑問。
 交響詩海は、1905年10月15日パリでラムルー管弦楽団により初演されている。第1曲海の夜明けから真昼まで、第2曲波の戯れ、第3曲風と海の対話。開始はpppピニッシシモでティムパニーの叩き始めは印象的に入る。ここで音量の問題として、pppピアニッシシモをどのように録音するのがベストか ? というと聞こえる最弱の音量設定である。聞こえることが前提となる。すなわち、ホールで演奏する時、PAパブリックアドレスのポリシーは聞こえない音量がホール全体で、感じられるような前提となる。ところが、客席の単一の印象はあり得ないのである。前後左右すべて印象が異なることは自然なのだから、PAによる音量の補正は、木に竹を接ぐ愚策に過ぎない。レコードというものは、印象の問題でナロウ、不自然であることは前提条件といえる。だから、自然な音空間の再生を旨とする。楽器間のディステンス表現こそ妙味だろう。
 「海」の神奈川沖波裏、葛飾北斎の版画は遠景として富士山が中央で目の前の大きな波は、西洋の油彩画の意表を突く大胆な構図、波の戯れでお仕舞いは、五音音階ペンタトニックが聞こえるジャポニズム。この近代音楽も当時は革新性が強く、聴衆にとって耳新しい、受け入れられにくい音楽だったと言われている。
 ジョン・バルビローリはパリ管弦楽団からdevoteされる関係構築に成功している・・・・・