千曲万来余話その579~「スメタナ交響詩ボヘミアの森と草原から、絶対と標題音楽と・・・」

 和声でハーモニーというと、4声体のソプラノ、アルト、テノール、バスから構成される。音の重なりで、ドミソドというのを主和音、ソシレソを属和音、ファラドファを下属和音としている。そこには、暗黙の規則があって、主音、属音、下属音のダブりは認められているものの第3音といって主音から3度上の重なりをしてはいけない。3度上の長3度は長調を構成して、短3度は短調を既定する。その役割だからということもなく、オクターブで重なるハーモニーは避けられている。
 ステレオ録音で、横一列に並べられるVn、第二Vn、アルト、チェロ、コントラバスという配置は、高音と低音の重なりを避けて、左と右手側へと配置される。これは、ステレオ録音構成の根底にある、音のダブりを嫌うことに拠っている。
 ベドルジフ・スメタナは1824.3/2、ボヘミア東方、モラヴィアに近いリトミシェルにうまれた。5歳でヴァイオリンを習い6歳でピアノの公開演奏を経験している。56年プラハ訪問したF・リストと知り合う。66年オペラ売られた花嫁初演、74年には聴覚障害が悪化していて、その苦しみは76年作曲、弦楽四重奏曲我が生涯よりで表現されている。その当時交響詩第1曲高い城、第2曲モルダウ、75年には第3曲シャルカ、第4曲ボヘミアの森と草原からが作曲され翌年に初演、第5曲ターボル第6曲ブラニークという連作交響詩我が祖国が完成、1882年には全曲初演された。高い城ヴィシェラートの主題は、終曲ブラニークのフィナーレの明るく輝かしく謳われている。盤友人はラフマニノフ、交響曲第2番の最終コラールにその共通する動機モチーフを聴いて、胸を衝かれた思いがある。
 ドイツ音楽の基礎をなす交響曲は、大概、標題プログラムを持たない絶対音楽である。ということは、言葉にとらわれない鑑賞は、思考が自由自在で、誘導されることはないから、芸術として上等、といえないまでも、価値としては受け入れやすいものである。それでは、標題音楽は格下の烙印を押されて構わないものなのだろうか?多分、両方が左右一対で、同格というのがふさわしいだろう。というのも、ボヘミアの森と草原からを聴いたとき、序奏に続く弦楽の入り方は絶妙であって、作曲家スメタナの音楽設計に心打たれるからである。第1Vnから始まり、第2Vn、アルト、チェロ、コントラバスという旋律の受け渡しは、ラファエル・クーベリク指揮バイエルン放送交響楽団のレコードで、左右そして奥の右左へという音楽の対話構造が明確に記録されていることによる。あたかも、目の前に眺望が広がる景色がボヘミアの森と草原に、風が吹き渡る様子そのままなのである。すなわち、指揮者の左手側から右側へという階層グラデーションでは、体験できないステレオ録音の醍醐味なのだ。
 不思議なことに、ステレオ録音では、左手側ヴァイオリンで、右手側チェロ、コントラバスが当然前提となっている指揮者の主張するところは、音の芸術だから聞こえ方は、不問ということで、弦楽器の配置は、高音と低音のステレオ録音が近代的オーケストラのスタンダードになっていて、舞台上手というところに低音楽器が配置されることになるのだが、舞台下手からコントラバス、チェロ、アルト、ヴァイオリンという配置の時、客席に対面する開放弦の一本一本は滑らかに推移して、低い音から高い音へとピチカートで確かめられるだろう。
 クーベリク指揮の録音すべてがその配置ではなく、孤高の指揮者はオットー・クレンペラーだろう。エードリアン・ボールト卿の場合、初期のステレオ録音は、右手側低音域楽器配置の典型であった。これは、聴こえ方の問題ではなく、作曲者の世界に迫る配置の問題なのであり、きわめて重要な音楽鑑賞の要因ファクターといえる・・・