千曲万来余話その597~「シベリウス交響曲7番作品105を指揮は三者三様で・・・」

 ヨハン・クリスティアン・シベリウス(ヤン?ジャン)1865.12/8ヘミーリンナー~1957.9/20イェルヴェンペー没、彼の祖父までさかのぼるとスェーデン人の血が混じっているというフィンランド出身、長男で姉弟がいる。2歳半で父と死別し自然を愛した子供時代、5歳でピアノを始め9歳で正規のレッスンを受ける。翌年Vnとチェロのための小品「水滴」を書いた。15歳でヴァイオリンを習い、家庭内では姉のピアノ、弟のチェロと室内楽を愉しむ。さらに独学で作曲法の教本をマスターして室内楽の作曲から始めた。ヘルシンキ大学の法科入学、並行しヘルシンキ音楽院選科生としてウェゲリウス1846~1906という名教師に就いて音楽理論と作曲法を学び他にVnを習った。4年間の音楽院在学の後、才能を認められ政府から給費留学でベルリンに学ぶ。作曲の道は学内演奏会で弾いたとき、聴衆の前であがりやすい性格を自覚し演奏家を断念して作曲へと転換をはかったというのは、有名な話。ドイツ留学でR・シュトラウスの交響詩を聴いてその影響を受けるようになったといわれている。1892年にウィーン留学を終えて直ちに母校ヘルシンキ音楽院で作曲とVnを教えることになった。翌年にはクレルヴォ交響曲を発表し大成功を収める。そのあと許婚者フィアンセのアイノと結婚し19年間で6女児に恵まれる。1894年にはイタリアに渡り、ヴェルディから高い評価を得た。1897年には政府から終身年金を決定される。年額2000マルッカ。
 1899年には交響曲1番ホ短調作品39を完成し、1900年パリ大博覧会、自作の演奏会で大成功をおさめた。翌年2月にはプラハにてドヴォルジャークに会っている。1903年には訪英、Vn協奏曲ニ短調作品47の初稿が完成、ヘルシンキで初演されている。04年にはヘルシンキの北方20マイル離れて、イェルヴェンペーに別荘を建て、そこで後半生隠遁者ふう生活をおくることになった。45歳1911年にはベルリン、パリを訪問、その際ブルックナーの交響曲に感激して、S氏自身第4番イ短調作品63を発表、14年には米国から招聘され、ヘルシンキ大学やイェール大学から博士号を授けられた。1915年には第5番変ホ長調作品82を発表、50歳誕生日には国家年金が年額5万マルッカに増額されて、国民的英雄という祝賀を受ける。1919年共和国宣言があり、1923年第6番ニ短調作品104を作曲、第7番ハ長調作品105とともに1925年ヘルシンキにて自作指揮をして発表、60歳誕生日には大統領から白バラ大十字勲章授与される。国民のあらゆる階層から祝福のために27万マルッカが寄せられ、年金も10万マルッカに増額された。彼は自宅に短波放送受信施設を装備して地球上で自作が放送されるのをキャッチする構えを整備していた。
 同時代の作曲家として印象派ドビュッスィ、十二音技法シェーンベルクらがいる。フォーレとともに「ペレアスとメリザンド」という同一タイトル作品が共通している。
 パーヴォ・ベルグルンド1929.4/14ヘルシンキ生れ~2012.1/25同地没はボーンマス交響楽団1972年、ヘルシンキ・フィル1984年、ヨーロッパ室内管弦楽団1995年と3回交響曲全集録音を果たしている。盤友人は1972年5月EMI録音の第7番ハ長調作品105を聴いた。音量を上げ気味にしてコントラバスのピチカートや、管楽器のハーモニーを的確に再生して最終の主和音、感動的に鑑賞する。ジョーン・バルビローリ指揮ハルレ管弦楽団1966年7月EMI録音を比較検討してトスカニーニに比肩するカンタービレ(歌うように)奏法に溜飲を下げる。熱気に圧倒されるのは、指揮者サージョンの独壇場である。 ロリン・マゼール指揮ウィーン・フィル1966年2月15,16,23,24,28日デッカ録音、当時36歳気鋭のタクトは、優秀録音と相まってゾフィーエン・ザール豊かな音響の記録として名演の誉れを確かめることになる、第7番ハ長調グレートの1/2時間的サイズ?・・・