千曲万来余話その645「マーラー交響曲第5番を指揮はワルターという高弟による・・・」

 人の記憶というもの、古いほど忘れがたく新しいほど定着しない。高齢化すると忘れやすく例えば食事など口にしたものを忘れるのはやむを得ず食事自体を忘れてしまうことが認知症のボーダーラインとなる。年寄りは昔の話をよく口にしても、つい先ほどのことはけろりと忘れている。盤友人は朝起きるとともに今日は何曜日でスケジュールは何かと頭の中で思考回路を働かせる。このあれこれと思いめぐらせる事こそ認知症対策のトレーニングと自覚している。
 ブルーノ・ワルター1876.9/15ベルリン~1962.2/17ビヴァリーヒルズ(米国カリフォルニア州)本名シュレジンガーで、ベルリン・シュテルン音楽院に学び1894年ハンブルグ歌劇場に在任中マーラーと知遇を得る。この後ワルターに改名して、1901~12ウィーン国立歌劇場、1913~22ミュンヘン国立歌劇場、1925~29ベルリン市立歌劇場、1929~33ライプツィヒ・ゲヴァントハウス楽団長として活躍、ナチス台頭の影響で1939年スイスのルガーノ経由でフランスに、そして米国メトロポリタン歌劇場などでの活動となる。1947~49年ニューヨーク・フィルハーモニック音楽顧問、他にウィーン・フィルのステージに立ち1956年現役引退、ロスアンジェルスにてコロンビア交響楽団とは録音活動を続けていた。
 トスカニーニ1867~1957、メンゲルベルク1871~1951、カザルス1876~1973、ビーチャム1879~1961、シューリヒト1880~1967、ストコフスキー1882~1977、アンセルメ1883~1969、クレンペラー1885~1973、フルトヴェングラー1886~1954、クナッパーツブッシュ1888~1965、エーリヒ・クライバー1890~1956など、この年代には個性的な指揮者が綺羅星の如く活躍していた。ワルターはマーラーと師弟関係はなかったのだが、19世紀末の音楽を後世に伝える貴重な指揮者の一人といえる。
 トーマス・マンの小説ベニスに死すを原作で脚色した伊仏米映画の巨匠ルキノ・ヴィスコンティ1971年製作になる同名の映画を6/9にBSプレミアムシアターで観た。盤友人は50年余り以前に札幌すすき野の日活映画館に足を運んでいる。ヴィスコンティの重厚感あふれるスクリーンと、繰り返しバックに流れるアダージェット、マーラー交響曲5番嬰ハ短調第4楽章に酔いしれていた。この交響曲の開始は、トランペット独奏による葬送行進曲風にというメンデルスゾーン作曲夏の夜の夢にある結婚行進曲のパロディであろう。跳躍する音程が長3度から短3度に変えただけで、音楽世界はタナトスの香りが漂うことになる。主演ダーク・ボガードは黒いスーツだったのが、ベニスに疫病コレラが襲うころから白いスーツで、意外な結末は主人公アッシェンバッハの死である。記憶の底に有った「タッジオ」という美の象徴、少年愛は弦楽合奏によるアダジェットで増幅、ヴィスコンティ映画とマーラー音楽のコラボレーションに成功している。不思議な感覚なのだが、スクリーン鑑賞の時に気が付かなかった監督の意図は、今回、自然に受け入れられることになる。視覚情報という上流社会の描写も、音楽情報である3番と5番の交響曲も、克明な印象を受ける。
 ワルター指揮するニューヨーク・フィルハーモニックの演奏は歌謡性に溢れている。アメリカは故郷であるヨーロッパを思い浮かべ、新大陸で郷愁を求める心とワルターの音楽が理想的なLPレコードとして残されている。1947.2/10録音で第4楽章は8分足らず当時のニューヨーク楽壇では、トスカニーニやミトロプーロスなど多士済々、いずれも、舞台中央にチェロとアルト、ヴァイオリン両翼配置とストコフスキーらの機能主義的な上手コントラバス配置にと様々なオーケストラが展開されていた。マーラーの5番第5楽章フィナーレでは、晴れやかで人生肯定的なメッセージが伝わる・・・